最近ずっと「都市型カルチャーセンスを武器にしていた漫画とその作家を認定する秩序」の衰退について人と話している。具体的には大友克洋、ニューウェーブ系、90年代までの作家群(望月峯太郎、高河ゆん、CLAMP、岩館真理子、いくえみ綾、楠本まき、安達哲、士郎正宗、沙村広明)の「後」を連続的に位置付ける言説やクライテリア整備が追いついていないとか、消失しているという気配がある。
どうもそれらは、雑誌メディアを背景に成り立っていた洋楽・映画・ファッションなどの文化参照が、メディアごと覇権を失ってしまったこと、漫画雑誌が暗黙にマスメディアをエミュレートしてテレビドラマで成功するビジネスモデルだったがそれが翳りを見せていることなどが連動しているんじゃないか、というふうに合意しつつある。
音楽はグローバル競合にさらされているので多元性を見せつつ、先端性のシーンがまだ機能しているが、映画の場合は欧州と米国で分裂するので対応する動きもトロくなってきているのではないかとか、付帯する論点が多い。
異世界おじさんがSEGAカルチャーセンス、ハイスコアガールがアーケードゲームカルチャーのセンスを参照・紹介しているわけで、じゃあこれも都市型カルチャーなのかという疑問も浮かぶ。こうなると、前世紀末の「カルチャー」の狭さを批判的に検討するフェイズが必要だと思うのだが、そういう議論も存在していない。
他方で、「アニメで、ダンジョン飯という作品を知りました。この漫画面白いですね」といった声が今では20代ぐらいから山ほど出たりするのだが、えっ九井諒子ってメジャーでは? つかわりと「作家」認定だよね? 町田洋とかに比べてもはるかに知られているはずだが…と、かつての漫画読み秩序からすると愕然とするような落差を感じる機会が増えた。「知られている話題作」という枠組みはもう無いようなところがある。
00年代ぐらいに作家主義枠とメジャー枠のそれぞれの輪郭が変わって、その頃にかつてなら作家認定されなかった島本和彦、藤田和日郎、冨樫義博、荒木飛呂彦、三浦建太郎、内藤泰弘などが加わった気配があるのだが(従来より少年誌モデルが前面に出たことを意味する)、その変容は良い面もあるのだが、現在の「単にオタクファンダムで勝利してる書き手」と区別が曖昧になる状況の先触れのようでもあった。
他方、文化庁やマスメディアが語る日本マンガ通史って、「文化の先端性とグローバル競合」のモメントをごまかすような調整でナショナルイマジネーションにまとめるような気配があるように思う。ここがおそらく生理的拒絶の根拠なんじゃないか。
という話題を×15 ぐらいやってるのだが、まとまらんので、これ本にするしかねえのかねえという感じになってる。
10年代は、キャンプ(ゆるキャン)、サウナ(サウナ道)、飯、温泉、旅などいろんな「カルチャー」参照&紹介漫画は生まれたのだが、前世紀末までの都市型カルチャーとは雰囲気が違っている。それは疲れを癒すからとか田舎に行くからだという点のみならず、映画・音楽・ファッションの参照が伴う「上昇志向と業界参入のオーラ」の有無で分かれる。
他方で、都市型カルチャーとセンスエッジが持っていた覇権は、そのままジェンダー&セクシュアリティ批評言説への感度にそっくり引き継がれている。そしてその裏返しとしてもろもろの業界のセクシズム体制、性加害側面への批判的検討が一気に進む過程にある。
かつての都市型カルチャーセンスとジェンダー&セクシュアリティ批評言説で共通するのは、一定の上昇志向と美的なものを含むエンカレッジ要素などだ。温泉やサウナ、キャンプにはそれらが無いので、かつての「カルチャー」と連続的に見えない、という印象が起きているんだろうと思われる。
だが、「カルチャーと漫画」として」考えるなら、上昇志向やエンカレッジと、必ずしもそうではないが別に現状追認ってわけでもない、という多元的な評価軸で全部総覧した方がいいんだろう、となる。