読者なり聴衆は、作家にシャーマンを期待して、その振る舞いを押し付けるんだけど、他方で、作家は作家で技能と実存の混濁のなかに生きているので自らシャーマンっぽい振る舞いを自分の礎にしてしまう。そうして相互に強化された循環のなかで一定の「素朴なことしか言わないがそれで熱烈に歓迎される」秩序が確立される。
が、なんかこういうのって勤め人が自傷的な消費行動に依存するとか、ホストや風俗に異様に金を使って実存が絡まってしまっている人と、私の中では完全に横並びに見えてしまい、作家ー聴衆だけが特別に思われていることの方が歪みに思えている。
たいていの作家って、しゃべるとわかってしまうけど、単に職人性とセンスと実存の複合体だよなとか・・
私は作家が素朴なことをいくら言っても許される状況って薄気味悪く見えてしまうというか、「作家」という特殊言説空間があってそこに知的に隔離されている結果に思えて、そういうふうに追いやられていることでどういう秩序が生まれているかの方が気になってしまう。
あー、『VRおじさんの初恋』けっこう攻めてるなあ。禿げた中年おじさんと初老じいさんがVRでバ美肉になって恋をする話。早々に男同士であることがバレるが、関係が続く。これ書いてる人女性漫画家かー
文フリ以外にも、こういうアクティビズムとカルチャーを交差させるイベントも出てきているし、今後多元化するのでは。
https://x.com/osonodoyo/status/1797500509097701695?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
身体性センス美学vs(前者を根拠に区別される)概念・思弁はしばしば乱用される。
だが、この図式はもっとずらして考えることができるのだろう。
身体性は、単にキャパシティ問題なところがあって、「一定の情報や吟味の入出力を越えるとハングアップして悲鳴を上げる」ことと相関性がある。ハングアップしたときに再発見され見出される「ちょうどいい閾値」が身体性であって、それはもとから身体なのではない。
となると、スキル習得やその取捨選択や停滞と不可分なのであって、最初から身体があり、その上で身体を鍛えたり、その延長線上で何かを非身体的とみなす、という手続きがあるわけではないのではないか。
キャパシティ以外にありうるのは、認識し受容する手応えや自己感といった面か。それらに接続させる受容処理が不足していても同じことが起きそう。
身体性を根拠にした拒否反応は、つまるところ「それについて考える手かがりがわからない」の発露にすぎんのかも。
不思議な響き、「インターネットの人」。人はインターネットになれない。
ルックバック劇場版がやたら評判いいが、そもそもクリエイター神話ものを好んで見る趣味がないから意欲生まれないなあ
あまり書き物ができてない。