『町山智浩とライムスター宇多丸は、映画語りをどう変えたのか?前篇』と『無職が聞く、日本最強の(元)自宅警備員による「TSUTAYA時代の映画語り」』を読み終えた。
良い本だった。
新刊の無職が聞く〜の方は、対談集『オーバーザシネマ』で不明瞭だった政治的モダニズム(ロドウィック)と侵犯行為のつながりを明確にし、広い射程に繋げ直した。ここから何か本を生成できそうなアイディアが語られている。無職が聞くシリーズは、町山本とは別に展開に期待。
ジョージさんの語りも、てらいのない知的なもので、このスタイルが良い感じ。
前回出た、町山宇多丸本の前編は「00年代後半からの映画教養形成」の系統をまとめてていい本だった。現行文化のリテラシーの形態を探るものでもある。広い層に届く本になってると思う。
北村紗衣が元タマフルリスナーの強調と、通過儀礼尊重から徴兵令オッケーが町山、の指摘で麗日グッジョブ感ある。
島田裕巳からインスパイアされた町山は通過儀礼論を映画読解に盛大に用いていると整理され、また、露悪やダークヒーローものをミルトン『失楽園』モデルで把握していると概説されるわけだが、町山は、オタクコンテンツの永井豪的ミームを全て失楽園に還元すればええやろというタイプだと思えばわかりやすい。
#読書 #感想
奈良のコンビニに書店の棚がやってきたら、意外な出会いが生まれた話(ライツ社)
https://note.wrl.co.jp/n/n1bce69f10772
コンビニが近隣の独立系書店の協力を得て、独自のセレクトで本を販売する棚を設置、という話。新たな本との出会いの場として機能している模様。
それ以前から、近隣の農家の産直野菜販売もしていたという話も含めて、地域の交流拠点としてのコンビニの可能性を感じさせる話でもあり。こういう独自の動きも、フランチャイズ的に許容される場合があるんだな、という意味でも興味深い。
あと大和郡山にこんな本屋ができていたとは。気になる。
面白い。セブン本部の仕入れではなく、町の書店の二次卸しというかたちで組み込んだのか。
こういう写真集、もっといろんな地域であると良さそう。https://x.com/nt1chk/status/1723711921495462373?s=46&t=5mSltbi1UVoy9J3RPXDKUQ
クラファンから始まる日本の圧倒的無惨さよ。https://ascii.jp/elem/000/004/168/4168424/
未確認飛行ハイパーオブジェクトの思弁?https://x.com/JayCKing78/status/1722009466764222611?s=20
「日本では“公共交通”を民間企業のビジネスとして運営している世界でも珍しい国で、高度経済成長の時代はそれで成り立っていたが、人口が減少した今は”ビジネス”として成り立たなくなっている。全国の路線バス事業者のうち黒字を出しているのは6%ほど」
https://news.yahoo.co.jp/articles/b6f7a453eb779c8f080785c4201ad9002cb49972
紺碧の艦隊の表紙艦隊絵を書いた安田忠幸は1954年生まれで、30代以降は艦隊絵職人キャリアで固定されてそのままずっと歩み続けているんだが(01年頃にこんな画集が出ているし、2010年代は大石英司の小説の表紙絵・挿絵で仕事をしている。 https://www.amazon.co.jp/dp/4120031055?ref_=cm_sw_r_cp_ud_dp_40G39V59WS7V7QM4H3Q6 )、00年代ぐらいに安田忠幸の与える「こういう古めかしいコテコテジャンルあるよなあ」という印象は、現在の古い美少女絵+物々しいSF設定風景のイラストのシロマサとほとんど変わらんよな、と。
今年7月の士郎展のポスターをみてそんなことを思った。https://natalie.mu/comic/gallery/news/529892/2086790
そういうふうに考えていたところだったので、攻殻機動隊公式サイトの士郎正宗ロングインタビューは、荒巻義雄シミュレーション路線の漫画における継承者が士郎である、という示唆があった。
(まあそもそも猿似の部長・荒巻大輔が荒巻義雄オマージュの命名キャラだと推察されるし、これらはリアタイのファンでは常識なんだろう)
https://theghostintheshell.jp/news/shirow-masamune-interview
ライフゲームと日経サイエンスの摂取を強調している点がシミュレーション要素。と同時に、日経を媒介することで日本の財界の思惑やイデオロギーも混入するはずで、しかしそれを意識しない無邪気さもかつての荒巻に近い。言うまでもないことだけど、この界隈のミリオタ知はだいたい反左翼イデオロギーが強い。
『別巻』にはこのメンバーの座談会が収録されているのだが、シミュレーションだから中立的です、米ソの言ってることはイデオロギーです、といった素朴な主張が繰り出されまくっている。(この種の発言に隙が露骨に見えるから、現在の再評価で回避する人が多いんだろうが、別の捉えかえしで包摂したほうがいいと思う)アホすぎるのでは
あと、荒巻は想定読者市場をウォーシミュレーションゲームのファンに置いているのも今や興味深い。コーエイの戦争ゲームとか大戦略の時代だなと。
除去作戦とは別解釈を推進するなら、仮想戦記こそが日本型ポストモダン小説だった?!とした方がよさそう。座談会では、新本格ミステリもシミュレーションでは?とか言われている。リンダ・ハッチオンがヒトリオグラフィー小説の展開でもってポストモダンフィクションとした手続きと並行的に思える。
あまり書き物ができてない。