この前の四季賞の『見えないばけもの』は、ちょうどこのコマとそれを持ち上げて「せやな」と盛り上がる秩序に対する批判の位置だな。
https://x.com/nwxksjphozj0vpw/status/1836406096128544900?s=46&t=X2RUQ4Qbb8-DRqOgpyhdjg
長山靖生の『偽史冒険世界』を読んでると、大本教とか天津教とかの教祖って、所属した教団の支部所属から始まって成り上がって、独立するときに「華族のご落胤」などと名乗るみたいで、まるでなろうやん!となる。
こういうことを考えるにあたって、貴種流離譚という枠組みはどこか生ぬるいのも気づく。既存の権力構造を丸コピした上で「俺がそれってわけ」が新興宗教の偽史のシミュラクル側面なんだが、そういう便乗と占拠の面が抜け落ちるなあと。
わりとちゃんとした記事で良かった。
キューブリックの『シャイニング』でエレベータードアから溢れてくる赤黒い大量の液体も、その系譜の中にあって、この種の事物は、生命と単なる事物、液体の中間のような地位を占める。
シャイニング 予告編 https://www.youtube.com/watch?v=uCfzgiULudY
こういう液体やテクスチャーフェチを喚起するオブジェクトってモデラー感覚も刺激するから、クローネンバーグとかとも相性がいいし、ある時期までは漫画家の参照項だった。
たとえばクライブ・パーカーの『ヘルレイザー』(1987)は、遊戯王の千年パズルとかベルセルクのゴッドハンド(登場シチュとキャラデザの系統)の参照源になっている。
ホラー映画「ヘル・レイザー〈4K〉」予告編 https://www.youtube.com/watch?v=qvCppkhgAsg
特撮とOVAがともに参照した系統のアメリカのホラーアクション映画ってあったよな〜とか人と話しつつ「The Blob」(1958)トレイラー、リメイク版(1988)トレイラー、「ゴジラ対ヘドラ」(1971)トレイラー、「アタックオブザキラートマト」(1978)トレイラーを見て、『オーバーザシネマ』の平倉回を読んでた。
ブロブの赤黒い塊・液体が、アメリカ文化としてのコンビーフやスパムなどを連想させつつ、生きたまま人を食らうスライムみたいなモンスター。いまでもblobはその手の不定形モンスターのミームとなっている。
ルックはキラートマトの「でかい赤いやつが襲ってくる」とパロディにされたわけだが、元はブロブなんだろう。
ゴジラ対ヘドラでもゴーゴーダンス会場の階段を降りてくるどろどろ液体がブロブミーム。
Trailer - The Blob (1958) https://www.youtube.com/watch?v=TdUsyXQ8Wrs
The Blob (1988) - Official Trailer https://www.youtube.com/watch?v=vq0our4mceQ
『アタック・オブ・ザ・キラートマト』予告編(字幕入り) https://www.youtube.com/watch?v=al9W0IY2-PY
『ゴジラ対ヘドラ』 | 予告編 https://www.youtube.com/watch?v=a6c_LuvJRuQ
だろうなあという感想。
元の漫画の作者、説教エッセイ漫画にどんどん堕ちていくのかな。
https://x.com/goro62853759/status/1835192221047701808?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
日本で竹内文書が出てきたのが1920年代後半、竹内文書を使って山根キクがキリストの墓、モーセの墓を語り出すのは1930年代だから、まさにこの本が想定している100年ぐらい前の情勢が基礎なんだよね。
ふーん、これ読んでみようかな。
『創られたキリシタン像』
“キリスト教伝来以降、民衆が抱くキリシタンへのイメージは、排除を意図して書かれた「排耶書」や「キリシタン実録」(実際の事件を主題にした小説の一種)など様々な出版物によって、実態とはかけ離れたものとなっていった。
大正期になると一転して「キリシタンブーム」がおこり、「虚構系資料」(キリシタン遺物の偽造品)を扱う骨董商まで現れ、現在誤認されたままの資料が各地のミュージアムに収蔵・展示され文化財に指定されるなどの問題が生じている。
これら三種の資料を紹介し、近世初期から現代までの民衆のなかのキリシタンイメージの変遷と、歴史的背景を読みとく。
【2024年度西南学院大学博物館企画展Ⅱオールカラー図録】”
〈自民党に詳しいジャーナリストは「自民党の選挙は電通に丸投げですよ」と裏事情を語ります。〉
自民、電通へ100億円超/19年間 政党助成金から支出
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik20/2020-09-15/2020091501_04_1.html
なるたるやぼくらのは性的モチーフや破壊、生死を露骨にやることで先鋭化したが、これは90年代文化から永井豪をやったというところがある。いじめとポルノなどの成分配置が90年代モード。
他方、モチーフは共通するが、構成要素間の隔離をうまくやったのがチェンソーマン。デンジがいかに胸がどうこうのと吠えようと作品秩序がデンジのリビドーとあまり連動しない。
アヤシデはそこで、性愛要素はいったん括弧において、友愛と不和に集中することで別の尖らせ方にチャレンジ。いじめがシリアスなティーンズに刺さりそう。藤本は教室内秩序の感度を尖らせるには歳食ってるので若い人の方が有利になる。吉野マトもだが。
バトル漫画は青年期における生の要素の昇華として展開するんだけど、それを構造化しつつコントロールして擬似的にメタを張れてるのがチェンソーマンの強み。メタで一段上をやるのではないなら、ドロっとした熱量でぶっ飛ばすしかない。この二択に挟まれると、田辺イエロウ「界変の魔法使い」はベテランとして達者だが、藤本的なキレの良さも、若い人の武器もない、と鮮明になってしまう。
あまり書き物ができてない。