ミシェル・カロンって人いるんだね。ラトゥールの友達か? ANTの形成者の一人っぽい。
漫画におけるネームと絵の工程で、こんな組み立て方があるのかーと驚いたのは、小林有吾の手法かな。
書き直しストレスを最小化するためとはいえ、ネームだけでリズムをコントロールする話でもあるので面白い。
西村、やはり才気あるなーという記事。
第1節が一番緊張感あった。
第2節で「関西と浅田彰&柄谷」のイシューに引っかかってそれに議論の方向性が規定されたとみる。関西と批評空間「他者・外部」主義、というイシューと今日的再解釈に関心がわき、調べてる途中でこれがアクチュアルだと考えついたんだろうが、うまくまとまらず、関西とお笑いと共同性という問いを組み立てきれなかったのだろう。
そこでまとめるために江藤で締めてくるので退屈なものになっている。共同体vs外部の図式に至る生成史はそう悪くないが、生成史の検討を活かして、別解をひねり出す模索をやったほうが面白くなるはず。
また江藤オチか、と失望はするが、その同類のなかでは面白い方。ナイーブ反応をめぐる記述は、センスジャッジはナイーブなものを叩く行動である一方で発話者のナイーブさの露呈になりがちということでもあるな
最底人→土人の解釈をしているが、これは末人の話でもあるので、明示的にニーチェなんだけど、西村は手に負えなくなるとみてカットしたか。
お、期待。
川本徹『フロンティアをこえて ニュー・ウェスタン映画論』森話社
"かつて「アメリカ神話」を形づくってきた古典的な西部劇は、今日ではつくられることは少ない。
しかし現代では、SFやロード・ムーヴィー、アニメーション、ミステリ、さらにダイナソー・ウェスタン、国境をこえるウェスタンなど、テーマや領域、方法が拡大し、多様化している。
現代アメリカ文化の基層を照らし出す新たなウェスタン映画論。"
かつての日本文芸批評は「小説みたいなものしか読めない層向けのアダプター書き手」が売れて、読者層はアダプター書き手だけを無限に読んであーだこーだ言う停滞が起きたのだが、いまはその書き手がグッと減った(千葉雅也がこの枠の現行覇者)。
今は小説愛好者向けの書き手としてエッセイ的な語り口やポピュラーフェミニズムが近い形で機能しているが、昔より政治性が強まっているし見かけ上は重なってないので、「要は日本のリテラシーでは小説の型ぐらいしかない」みたいな構造問題は不可視になっている。
いまだと、小説愛好者向けアダプター言説読む、の代わりに理論教科書読んで、理論言説読めない人がそこに無限に留まる図に入れ替わっていると思われる。
昔は「小説みたいな語り方の本しか読めない(そこで、日本文芸批評です!)」ワールドがかなり強く、この層は批評理論忌避勢でもあったが、そこでもバルトとベンヤミンだけは別、という好まれ方をしてた。文人っぽいから読めるみたいな扱い。
ベンヤミンは短いのもあって読まれやすく、バルトやブランショからの断章スタイルこそが正義!みたいな美意識の人もいた。今はそういうのはわりと滅びた。
そういや誰もまとめてないけど、ロシアウクライナ戦争以後、なろう作品で「帝国主義大国から強襲されて抵抗する」展開がわりと増えている。『転生したら剣でした』がわりと露骨にそうだと思っていたが、他にもありそう。
歴史哲学テーゼは、ウイルスめいた散布状態になってて笑うよなー。かなりカオス。アーレントが本人からもらってた経路とか、バタイユがもらって妻経由でアガンベンが受け取った経路とか、6種類ぐらいある(鹿島の本で整理されてる)。
あまり書き物ができてない。