西村、やはり才気あるなーという記事。

第1節が一番緊張感あった。
第2節で「関西と浅田彰&柄谷」のイシューに引っかかってそれに議論の方向性が規定されたとみる。関西と批評空間「他者・外部」主義、というイシューと今日的再解釈に関心がわき、調べてる途中でこれがアクチュアルだと考えついたんだろうが、うまくまとまらず、関西とお笑いと共同性という問いを組み立てきれなかったのだろう。

そこでまとめるために江藤で締めてくるので退屈なものになっている。共同体vs外部の図式に至る生成史はそう悪くないが、生成史の検討を活かして、別解をひねり出す模索をやったほうが面白くなるはず。
また江藤オチか、と失望はするが、その同類のなかでは面白い方。ナイーブ反応をめぐる記述は、センスジャッジはナイーブなものを叩く行動である一方で発話者のナイーブさの露呈になりがちということでもあるな

最底人→土人の解釈をしているが、これは末人の話でもあるので、明示的にニーチェなんだけど、西村は手に負えなくなるとみてカットしたか。

note.com/jimbunshoin/n/n2f17b6

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になる一点は、清水多吉はなんで『第三文明』で書いてるんだ?の件かな。

柄谷も昔対談集を第三文明社(本体は創価学会)から出していた。ダイアローグシリーズ(全5巻・1987-98)と中上健次発言集成全5巻(1995)。ダイアローグシリーズの担当は山田賢治という編集者だが、この人の手腕が大きかったのかな。

70-80年代に総会屋雑誌が栄えたのと似たような感じなのか?

清水多吉から話を始めたことでフランクフルト学派アジェンダから浅田を位置付けることに早々と成功していることと、リアルタイム反応を相対化しきれているなどの手腕が見どころ(つまり第1節)。

そういえば西村論考で思い出したけど、センスエリートによるドメスティック腐しのコードでいうと、吉本隆明と吉本興業を「ドメスティックで同じ」と括るのが浅田のやり口だったが、この背景が丸ごと壊れたので、隆明と興業のそれぞれの再評価開始、という線もあるんだな。

考えてみれば、これを明示して着手してる人まだいないわ

この目でみると、「なるほど、かつての浅田にとってのプレ柄谷が糸井なんですね!」的操作が、浅田読者も浅田当人も嫌がりそうで、でもキレのいい指摘に映る。

「ニューアカ時代より他者モードの方がすごい」の評価が90年代に支配的だったが、西村は初期の方が良くね?と思ってる気配があるし、他者・外部言説にあんまり乗る気がなさそう。

西村が、椎名林檎やお笑い論などを考える上で、80年代、90年代の把握や関連言説ごと再検討するために、こういうアプローチになっているんだろう。

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