ディズニーシーのフェイク石材を楽しむという極まった遊びだ https://x.com/mamtanuki/status/1855855698506371227?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
それな
“てか若い人が左翼思想を学ぼう、と思ったときの選択肢として外山合宿が最有力候補に浮上している現状ってわりとマズいよなと常々思ってるんだけど、どうすりゃいいんだろうな”
https://x.com/mjqag/status/1855582325993832556?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
メイヤスーの「祖先以前性」トピックって、もはや忘れ去られているけどロシア宇宙主義注目の文脈を作っていて、それらは死者と生の関係一般につながるような問いだった。かつてと違って社会に対する文化と作品の位置付け自体が再審に付される変動が起きてて、そこでセオリーも哲学も宗教の問いと再び交差してるし、宗教以外では各国ごとの右派展開も顕著なことから(フランスのライシテもそれでなんとかなるという信の対象ではなり)、統治や宗教ごと総体を把握するような知のニーズが高まってる。それで文明論に派生しがちだったりしている。
そういう情勢に対するパースペクティブの模索が曖昧にやりすごされている状況があるわけよ。
モダニズムの前提である世俗主義(政教分離や芸術・宗教の分離)を再検討する機運はあれこれあって、「大地の魔術師」展が 00-10年代のアメリカを脱中心化させるグローバルアートのなかで参照点になっているのもそれだし、イコノクラッシュ展も当時における応答だし、独仏英にまたがるイメージ論的転回も美術史研究寄りとはいえ近い位置にあるし、ベルティングならイメージ人類学で対応していたし、グロイス『流れの中で』がアートと宗教の永遠性の問いから議論を引き直すのも、そうした情勢を参照してそうなっているわけですよ。そもそも現代の「ランドアート」定義は先住民の古代遺制や古墳なんかも入るよ。
日本ではそういうのが全然消化されてないから、90年代時点で「土俗への回帰」と批判されるのを想定しつつ踏み切った椹木とか、オーウェンスのアレゴリー論やベルティングを参照して中世日本宗教画や儀礼論を組み込む黒瀬の足取りすら位置付けることに失敗して、世代的忿懣をぶつけて終わりにするプレイで止まってる。
で、そういう射程作りで読むと、酒井は「もうちょっとコンセプト練るべき」となる。
この記事を書いた酒井貴史自身が美術家で、伝承を模したり捏造する系統の作品を作ってるんだな。その立場上、怪談が他人事ではなくなるわけか。
出品略歴がある
https://shinano-omachi.jp/asahi-air/artists/takafumi-sakai
https://nakanojo-biennale.com/artist/takafumi-sakai
Twitterアカウント
https://x.com/koukanjyo
この箇所なるほどなあとなった。川村覚文の本の第5章における見田宗介をジョディ・ディーンへ合流させる議論ともつながる。
この理屈だと、ブーレーズやシュトックハウゼンを押し出すのは「アメリカ勢に負けないぞぅ」の対抗性ゆえだとなるし、そうした欧州系紹介言説も日本社会に対する(主に米ソが担った)「大文字の他者」ポジションの争奪戦に見える。そしてその派生で、どの国をアバターにすれば偉くになれるかを日本国内で論者たちは遂行する。
となると、ここで「いやルイージ・ノーノですよ」の差異化ちら見せは、政治性意識してますプレイになるわけだな
「戦後のヨーロッパにおける前衛音楽の隆盛には、じつのところ、アメリカを盟主とする自由主義陣営からの資金援助が大きくかかわっていました。自由主義諸国の前衛の作曲家たちは、新たな芸術音楽の可能性の探求にひたすら邁進していたのであって、けっして政治的な意図をもって作曲していたわけではありません。むしろ、政治といったものとは無関係だとさえ思っていたでしょう。しかし、そうした作曲家たちの意図とは裏腹に、実際には、彼らの音楽は、西側の反共産主義政策の中に重要な文化的手段の一つとして組み込まれていたわけです。」
(近藤譲「ものがたり西洋音楽史」岩波ジュニア新書892/2019年/274ページより引用)
こんなのやってたんだ(佐藤朋子のRTで知った)。「エクリ新訳を出せる訳稿はすでに溜まってるが出せない」段階なのか? https://x.com/SLJLSJ/status/1855072635115520220
@on1000mark つ https://oreore.red/anime-character-iq ギャグ漫画日和と戦う日が来たよ!
あまり書き物ができてない。