あー、くねくねと地域芸術を結びつけるのはすっごくわかる。
昔くねくねを読んだときは、真っ先に、越後妻有のカバコフ作品(農作業の青いシルエットが山腹にある)を連想したんだ。越後妻有にはボルタンスキーの白い衣服がひらひら畑で舞ってる作品もあったし。
地方芸術祭とネット怪異譚
https://kakuyomu.jp/works/16817330657174166773/episodes/16817330657174702464
ぶっちゃけ、文章下手というか、論説の展開や手頃な筆運びが下手で、読んでてすごく読みづらい文章ではある。判断の位置付けや留保がなくて、レイヤーが管理できてない。「と解釈できる」とか「〜とーは同じような対立で把握できないだろうか」と挟むだけで何とかなりそうな箇所が多い。
一つには、60年代が終わり、70年代以降の脱政治化を経て、左派のユートピア志向が失効し、それが因習村表象に転じているんじゃないか?という見立てはわかった(そういう言い方はできてない)。
もう一つは、作品経験が怪談のように伝承されるって作家の希望だよねというのがあって、そこから敷衍しているんだな。
モダニズムの前提である世俗主義(政教分離や芸術・宗教の分離)を再検討する機運はあれこれあって、「大地の魔術師」展が 00-10年代のアメリカを脱中心化させるグローバルアートのなかで参照点になっているのもそれだし、イコノクラッシュ展も当時における応答だし、独仏英にまたがるイメージ論的転回も美術史研究寄りとはいえ近い位置にあるし、ベルティングならイメージ人類学で対応していたし、グロイス『流れの中で』がアートと宗教の永遠性の問いから議論を引き直すのも、そうした情勢を参照してそうなっているわけですよ。そもそも現代の「ランドアート」定義は先住民の古代遺制や古墳なんかも入るよ。
日本ではそういうのが全然消化されてないから、90年代時点で「土俗への回帰」と批判されるのを想定しつつ踏み切った椹木とか、オーウェンスのアレゴリー論やベルティングを参照して中世日本宗教画や儀礼論を組み込む黒瀬の足取りすら位置付けることに失敗して、世代的忿懣をぶつけて終わりにするプレイで止まってる。
で、そういう射程作りで読むと、酒井は「もうちょっとコンセプト練るべき」となる。