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東大卒と夫の私大卒の自慢を振りかざして自分から階級的敵意を煽りに行ってるのはスゲーあほだと思う。教員の中産階級身振りをオート模倣してる。

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藤井セイラについては「ライターって時代ごとの産業のプロモーターを兼ねた存在なんであんなもんでは」と怒りは薄く、むしろ藤井セイラ記事に何の留保もなく乗っかる大学教員の方に「修行しろよ」とガッカリしますね

青年誌・女性誌のマンガ秩序がなまじ豊かに育ったからこそ、時事風刺マンガがうまく育たず、かといって90年代までの脱政治日本カルチャーの秩序から脱却もし切れていない、といった弱点がいまなおマンガ生産にはつきまとうのだろう。

今回のねじ式パロ作品への好評ぶりには、「なんで褒められてるん?メッセージがあればそれでいいのか?」となんか困惑した。時事風刺マンガが現代日本で欠落しているのだが、そこで時事風刺性さえあればジャーナリストモードで褒める人が自動反応してるようなまずさを今回強く感じた。

岡田索模の作品についてまとまった意見を聞いてた。ありもののパロディやネットミームでそこそここなせてしまっているのがまずいんだろうな、と現状の限界を指摘する話で示唆的だった。

@imdkm これ、椅子に座ってるときに使うんです?

井川ちとせ「リアリズムとモダニズム 英文学の単線的発展史を脱文脈化する」
hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/herm

イギリスのロウブラウ雑誌をミドルブラウにして道徳的名声を高める努力の過程でアーノルド・ベネットというミドルブラウ作家が活躍し、ベネットはハイブラウ作家からは舐められてたけど、イギリスでユリシーズやドストエフスキー英訳(どっちもハイブラウ枠)が読まれるのを後押しした、という「ちょっとおもろい話」がある。

ベネットはなんか「道徳的名声を得るには中道右派だぞ!タブロイドは卒業しろ」とか助言してたとか、ウィンダム・ルイス(ハイブラウ右翼芸術家)と接点もあったなどと記されている。

最近私はめっきりローマづいてるよ。といっても、古代ローマに達成を見る/ローマとギリシアの対立を使う言説空間全部押さえて、古典古代振りかざしパーソンへの戦いに備えるかー、というのが大きいが。

今ならではの解釈でなるほどとなった

"シティハンターのようなバブル期作品の現代版を見てる時の哀しみ:たかだか日本の一地域で世界的犯罪組織の暗躍とかないし、たかだか日本の一企業に世界を混乱に陥れるような新兵器の開発とか無理だし、みたいな、日本という国のスケールとの齟齬を感じること。当時はそこに多少リアリティがあった。"

twitter.com/mixingale/status/1

いまだ、論壇プレイヤーも研究者も、階級と文化批評を同時にやれる人がほとんどいないか、あられもなく「大学教員の中産階級身振り」を発露させる人たちだらけ(カルスタの「おのれのポジショナリティに留意せよ」の教えが全く浸透してない)であり、その状態のまま再生産が継続している。

他方で、その中産階級身振りへの反発が単純な逆張りになり、文壇保守と、ラディカルカルチャーへの経路を欠いた論壇秩序への融合をあっさり果たすので、「ラディカルを自称しつる右派にすり寄る形態」にどんどん落ち着くようになっている。そこには「逆」などない。

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左派でのこのタイプの脈絡は、二昔前なら市田良彦も浅田彰もそうだったし、今なら王寺賢太もそうだろう。戯画的に言うならこの層は左右ともに「ラディカル左翼教養はエリートの嗜みですことよのお嬢様」だ。ブレヒトとかエイゼンシュテイン、ベンヤミンとか当然読みますよねという高等教育に対応しているのだが、単に階級がストレートに反映されている。

この類型はいま急速に減ってきていて、と同時に右派文芸評論家と区別がどんどん付きづらくなってきている(エスタブ身振りに対する調整能力を欠けた人がとにかく多いのと、英米ラディカルカルチャーを軽視しまくるので)。

他方、00年代以降のネット在野知性の系譜では絓秀実の路線が目立つが、さっきの例えで対比させると絓信者は「ラディカル右翼教養はエリートの嗜みですことよの"平民お嬢様"」に相当する。階級との関係はある意味もっと滑稽になってきているし、旧来のアングラ土俗右翼との差が減ってきている。

その2つともが文化と階級への吟味・介入能力を欠いているのだが、この欠落の発端は、(プロレタリア文学[現代なら左派エンタメと言える方面]の小林秀雄による殲滅が固定された文壇秩序の完成もさることながら)思想論壇と英米ラディカルの接続失敗のまま21世紀を迎えたことにあるんだろう。

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「左翼アートは認めるが左翼エンタメは忌み嫌う富裕層権威主義者」って昔も今もたくさんいる。右派の場合はわかりやすい。昭和期の自民党議員が左翼アートにも後援していたとか、企業メセナ活動の中に左翼路線が混ざっていることもこの範囲内で説明がつく。今はアパが公然と「後援してるんだから右翼メッセージ出せや」と圧をかけてきそうな状況があり、昭和期の秩序は消えつつある。

かつての秩序は「京都賞・高松宮殿下記念世界文化賞」のパラダイムだとまとめることも可能だろう。それは、海外アーティストにはラディカルレフトだろうが反右翼だろうがばしばし賞を与えるが、国内のそうした作家は無視、かつ脱政治的装いで自民系保守と摩擦を最小化する日本的二枚舌体制でもあった。この秩序は失われつつあるが、冷戦後期時代に日本に浸透・確立しなかった左派エンタメを今こそやろうという機運や、アートの政治性ももっと取り上げようという機運が上昇しつつある。ただし、「左翼アートは認めるが左翼エンタメは忌み嫌う富裕層権威主義者」が左右両方に根を張っているのがやはり障壁になる。

なろうや角川はエスタブリッシュメント層やそれに餌をもらう政商だらけの世界で、私にとってはロウブラウカルチャーとして隙間に介入するという対象。

普通に見て右翼イデオロギーはめちゃ溢れてるし、ファンダムはその再生産&増幅ばかりやってる。が、そうしたエンタメだけが右傾化してるのではなく、平安文学を取り巻く言説はもともとそういうもんですね。

国民化の過程を担うナショナルメディアに、透明な一体感を漠然と期待しすぎだと思う。「普通の日本人」需要きついなあ、と私はちょっと引く。

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階級と文化とナショナルメディアについての感度やリテラシーってまじで荒廃してるんだろうなあ

「朝ドラやNHKへの不信」といった語り口の投稿をこのところ目にするが、朝ドラ・大河ドラマは右派エンタメの一角なのであって、NHKは国民化の一装置なのだから、今に始まったことではなく、なぜ国民化のメディアに文化左翼を期待しているんだ?というレベルで驚く。
NHKのドラマは、教養主義的な保守が「まあがんばってるじゃないすか。現代でこれならば良し」と後方腕組みしてうんうん頷くものだと思っていたが…。

右派エンタメのロウブラウの中にも隙間はあるよ、というチャレンジングな介入の対象ではあっても、手放しで期待するものではないと思う。

初期のスティーブンキング評価って、ザ・俗悪、ロウブラウなんだな。角川文化の上位版か。

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