「左翼アートは認めるが左翼エンタメは忌み嫌う富裕層権威主義者」って昔も今もたくさんいる。右派の場合はわかりやすい。昭和期の自民党議員が左翼アートにも後援していたとか、企業メセナ活動の中に左翼路線が混ざっていることもこの範囲内で説明がつく。今はアパが公然と「後援してるんだから右翼メッセージ出せや」と圧をかけてきそうな状況があり、昭和期の秩序は消えつつある。
かつての秩序は「京都賞・高松宮殿下記念世界文化賞」のパラダイムだとまとめることも可能だろう。それは、海外アーティストにはラディカルレフトだろうが反右翼だろうがばしばし賞を与えるが、国内のそうした作家は無視、かつ脱政治的装いで自民系保守と摩擦を最小化する日本的二枚舌体制でもあった。この秩序は失われつつあるが、冷戦後期時代に日本に浸透・確立しなかった左派エンタメを今こそやろうという機運や、アートの政治性ももっと取り上げようという機運が上昇しつつある。ただし、「左翼アートは認めるが左翼エンタメは忌み嫌う富裕層権威主義者」が左右両方に根を張っているのがやはり障壁になる。
左派でのこのタイプの脈絡は、二昔前なら市田良彦も浅田彰もそうだったし、今なら王寺賢太もそうだろう。戯画的に言うならこの層は左右ともに「ラディカル左翼教養はエリートの嗜みですことよのお嬢様」だ。ブレヒトとかエイゼンシュテイン、ベンヤミンとか当然読みますよねという高等教育に対応しているのだが、単に階級がストレートに反映されている。
この類型はいま急速に減ってきていて、と同時に右派文芸評論家と区別がどんどん付きづらくなってきている(エスタブ身振りに対する調整能力を欠けた人がとにかく多いのと、英米ラディカルカルチャーを軽視しまくるので)。
他方、00年代以降のネット在野知性の系譜では絓秀実の路線が目立つが、さっきの例えで対比させると絓信者は「ラディカル右翼教養はエリートの嗜みですことよの"平民お嬢様"」に相当する。階級との関係はある意味もっと滑稽になってきているし、旧来のアングラ土俗右翼との差が減ってきている。
その2つともが文化と階級への吟味・介入能力を欠いているのだが、この欠落の発端は、(プロレタリア文学[現代なら左派エンタメと言える方面]の小林秀雄による殲滅が固定された文壇秩序の完成もさることながら)思想論壇と英米ラディカルの接続失敗のまま21世紀を迎えたことにあるんだろう。