台風、九州に居座りすぎてて、何なの。困った客なの?という感想に。
高山宏と田中純の高騰フラグだ・・・・ https://twitter.com/Bookness2/status/1828935234123116826
文学と宗教の結びつき、距離を取ったかのように見えながら代替図式を作っている状態というのはけっこう根深く、芸術に関する聖性や卓越性は宗教的儀礼の変形に見えるものが多すぎる。しかしそれも必ずしも欠点になるわけでもない。
近代における世俗化と政教分離によって、芸術は宗教と無縁になったということになっているが、芸術史の側だって新たな形で再導入されている状況を否認しているわけでもなく、むしろ脱魔術化という事実は本当にあったのか?ぐらいに言われそうな面がある。
むしろ作品が国家とポルノ産業に完全回収されないためには宗教のトポスが残っているのはフィクションにとってもバッファになるから、案外馬鹿にできないものだなあと芸術史を振り返ると思うものだが、そこを「カルト」と呼んで終わってるのも、いかにも教養がない。もっと両義性に踏み込まないと馬鹿にみられると思う。
私は今回の星野の記事、愚劣だから内容にコメントするのも嫌だったんだけど、「小説という形かそれに準ずる言語でないと、言葉を出すことをやましく感じるようになっている」というように、実際に「お前マジョリティだろ」とマイノリティから突き上げを食らったかどうかとは別に、突き上げを食らったような気分になって「疾しい」気分になっていた、というのがポイントで、
そこから「作家の言葉」に退避してるわけだが、その「作家の言葉」の言説空間こそを吟味しろや、と思ったかな。SNS消費vs作家の言葉 の図式がすでに臭い。
居場所と小説執筆が対比されているが、人が居場所をつくることに逆らう、それが作家の言葉っていうイデオロギーだと思う。そんなくっきり分かれるわけねえだろ、と疑わしい。でもSNSのクリエイター気分の人、こんなのにころっとやられる。私はこの種の「自律性を求めた人間が作家神話の再生産をやってミメーシスしまくる」ことの方に問題性を感じている
クリエイターって「自分が奪われたくない!」かつ「自分はすぐにキャパオーバーしてハングアップするんだ!」が多い。その結果、驚くほど似たような擬制に足を取られる
仲俣がいうように、元産経新聞記者だった経歴からすると、「無理してリベラル向け商売するのやーめた」宣言ってところだろうな。そして数々の引用RTでいろんな連中が炙り出されている。
https://x.com/lilico_i/status/1828185860954878102?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
松岡正剛のインサイド寄りの見聞を交えた追悼で、なかなかよかった。https://www.ele-king.net/columns/011481/
数件しか書くものがないのに、やっとここまで登録した。
https://researchmap.jp/Koji_Shirae?lang=ja
しかし自分のresearchmap見ると、よーし、たくさんかくぞ~って気分になりますな。Mtg、艦これ、ねこあつめとかと同じ刺激。
あまり書き物ができてない。