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@imdkm 暗闇寝転がり読書アイテムだとばかり・・・

このところTLでピクニックの文字列を見るが、何かの隠語なのかもしれない。きっとヒミツのあれやこれやを開催しているのだ。

中谷礼仁は、岡崎乾二郎と一緒に仕事してたころに(おかけんも論じてた)シェーカー教の研究を持続してたのかー
twitter.com/rhenin/status/1793

社会学評論はジャーナリズム言説の上位互換なので、その枠の中での卓越という面がある。

と同時に、りりちゃんについて熱く語ってる言説は、その人の作品への姿勢が露呈していることが多く、その姿勢というのは、作品を語る時には作品にジャーナリズム要素を見ているだけだし、作品読解である理由があんまりないんだよな、と私はわりと白けた思いをしている。

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こういう状況はあるな。
平岡正明的犯罪論や初期大塚英志の少年少女の犯罪や自殺の語り方が今では難しいのも同じだ。

"批評的社会分析の「衰退」には、第三者からの批評的分析対象に「してはいけない」カテゴリーが増えた、という点も大いに関係してそうです。「りりちゃん」はまだ批評可かもですが、「ホスト依存に悩む若年女性当事者」ならもう批評すること自体が不適切になりかねないですからね"

70年代ぐらいまでは、映画もこの枠の批評・評論と連続していたと思う。略取連続射殺魔は、足立や若松の凄さというよりは、ジャーナリズム世界との地続きにおけるラディカル化だろう。

twitter.com/surippa_krhrmkn/st

@imdkm ちなみに桜橋の件は台東区フィルムコミッションがあります〜という話題だった

GPT-4oに対応ずみのアプリやサービスって今だとどれなんだろ

ロケ地聖地化そのものは別に昔からあるやろ、ヌーヴェルヴァーグゔぁーぐのパリだって図らずもそうなった路線だろう、とか思うので、特に反感はない。パリ郊外のスラムを扱う『バティモン5』のような作品がカウンターとして生まれるのも含めて、現在の都市と土地と階級の状況。

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スレまとめの中身全く読んでなかったが、一応確認したら「つ司馬遼太郎」「つ花の慶次」は即座に発動してた

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テレビ見てたら、東京では海外からのインバンド狙いで、ロケ地にしたい人へのフィルムコミッション制度が充実し始めているんですよ〜、というニュースがあった(これ昔から市街地ロケができないという日本映画の悩みだったはずでは?インバウンド対策でいきなり解消したの?とかなり気になったが…)。

パーフェクトデイズも聖地巡礼効果あります〜、からの、海外のウーミンジン監督さんもPDにあやかって桜橋でロケ!というふうに展開してた。もはやヴェンダースと新海誠が似た感じ。まあパーフェクトデイズの居酒屋や地下街の選定は、日本の外から見ると、天気の子の代々木会館チョイスと似てるんだよな…。

ウーミンジンはこの人みたい。ストーンタートルがロカルノに出品されてる。
imdb.com/name/nm1310756/?ref_=

ロックリートーマスの本は「歴史小説」と扱うのがベストっぽいね。その扱いならいいのでは?と逸らす手口が浸透してないから排外主義者がはしゃいでしまっているのかも。
blog.livedoor.jp/kinisoku/arch

『花の慶次』以来、前田慶次ミームが若者像として浸透しているのも、「史実に反した空想乙」なので、今更感ある。そもそもこの30年間の坂本龍馬イメージは「司馬遼太郎の空想乙」の世界だしな…。

大河ドラマの現代的調整要素もあるわけで、そういうのを空想乙と嘲笑しないのは、NHKがナショナルアイデンティフィケーションの装置だから透明化してる産物だろうな。

というわけで、日本在住の語学研究者が熱を上げて書いた歴史小説っぽい何か、とすれば、それはそれでありじゃん、と話が収まりそう。

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自然の権化としてモンスターを登場させると、自然/自然(としての人為)/人為と、軸が入り乱れていく作用が得られる。デル・トロもポン・ジュノそういう意味ではポストシネフィルかつ特撮要素も入れる側になる。

「身体性の発露と記録」の美学にとどまるとき、これ以上踏み越えてはいけない線引きが生まれやすく、映画美学のドキュメンタリー軸も今なお消えていないように、映画のスタイルを規定する何かとなっている。そんなことを考えた。

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