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本当は猫なのに、誤って人間の生活をしているみなさん。お加減はいかがですか。

白江幸司 さんがブースト

不意にオノ・ナツメ『ACCA13区監察課』(全6巻)を読み始めたら、あまりのたくみさ、漫画のパワーに、一気に読み終えてしまった。シナリオよし、絵よし、セリフやドラマの構築力あり、と今や珍しいフルスペック漫画家だ・・・!と感動した。普段、貸本時代の再演であるかのような限界水準を掘っているだけに。

アドルノは、ベケット褒めて映画やラジオでハイモダニズムやるぞ~、が本意なのに、あらゆる芸術を殲滅するアウシュヴィッツ絶対化おじさんみたいなきわめて保守的なイメージが現在蔓延している。
だが、ジェイの示唆するアドルノからは、彼のミメーシスこだわりからでも映画分析へのコミットもありえたはずだし、彼の文化の真正性への敵意からは、シミュラクル万歳のコースもありえたと読める。

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ジェイのミメーシス論まとめ(ついでにアドルノ/ラクーラバルト論)である「ミメーシスとミメーシス論」(『文化の意味論』)では、90年代当時のアドルノ研究成果を生かしたアドルノ像が登場し、それとラクーラバルトの仕事が突き合わされる。
ここでのアドルノ言及はいろいろ示唆的で、「ドゥルーズの理論的ポテンシャルに比べるとドゥルーズ自身の芸術ジャッジが保守的に見える案件」はアドルノとそのポテンシャルでも同様だったと気付かされる。つまり、ドゥルーズを、プルーストでゴダールでストローブユイレでベーコンの人と見ると、なんか古い文化趣味に見えるんだけど、理論的にはむしろその後のフェイズで捉えうる感じが、アドルノ解釈でも起きてたんだなと。

ディシプリンやそれを伝授する集団が、「特定の言動への侮蔑」を結束の手段にして、しゃっくりのように繰り返すのは、どこにでもある。アメリカの学問にだってある。
そういう威嚇行為と学術秩序がほとんど不可分になっているし、日本はその末端。

「書籍だけで知っていると、穏健なのかなと思っていたが、アカウントの言動があまりに醜悪でびっくり」とか「アカウントの活動のせいで、評判がいいらしい書籍の読むが激減」などもよくある

いや、むしろ正当性を確保したまま人をなぶりたいから研究者をやる、って人は今や珍しくない。

大家や中堅の専門家でも排他的規範意識で侮蔑を撒き散らす人はどこにでもいる。表面の取り繕いに差があるぐらい。その程度の粉飾で人は「ふーむなるほど」などと腕組んで頷く反応になる光景はよくある。

これまで単に物理的に隔たってたから醜悪さが可視化されなかったのがSNSになって表面化したのであり、悪化したわけではないのだとも気づく。

渋谷TSUTAYA終了のお知らせ以来、関係各所に激震が走っているのだが、こういう人があちこちにいるんだろうなあ。再販しなさそうなものを狙い撃ちにしてそう。プレミアム化が確実なものもゴロゴロあるだろうし。

"渋谷TSUTAYAレンタル終了日まで毎週40枚7,200円レンタルチャレンジを始めていきます。手始めにクラブミュージック あ行で40枚。来週は か行で40枚予定。"

x.com/wQQ_v_QQw/status/1692407

揶揄と藁人形論法にエナジーの大半を捧げる、権威主義的なセクト尖兵みたいな人は今ではたくさんいる。院生や研究者含む。

@november1952 かつてかっこいいものだったんだろうなあ…。

日本文学だと、司修か。古井とか大江の表紙。

そして、この枠のポップ化とエンタメ小説への採用として天野喜孝がある。

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76年のTEL叢書から出たサルトル『存在と無』も、オプアートもどきなので、こういうビジュアルを出して純文学とする潮流があったんだよね。
フーコー言葉と物の加納光於の装画起用もその末裔。

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この手のデカルコマニーはエルンストからの派生なんだけど、とにかく和製系譜があった。なにせ、昔出たつげ義春の小学館文庫表紙すらこの手の絵なのだ

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瀧口はそもそも、「友達に発注してたから、友達がAI」みたいなものだとも言える。AI画像生成って、パトロンと絵師の構図がコンパクトに再演されてるんだろうな。

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