欧米の歴史修正主義(「ガス室はなかった」的なの)が反ユダヤ主義と結びついているように、日本の歴史修正主義は中韓差別と分かちがたく結びついており、だからこそ歴史修正主義は過去がどうこうの話にとどまらない、現在進行形の「人権問題」なのだ、とは何度でも念押しする必要があります。
先日田宮二郎版の「白い巨塔」(1978)を見た勢いで、DVDで「華麗なる一族」(山本薩夫監督、1974)を見た。キャストでダブる人が多すぎて脳が混乱している(笑)。順序は逆なのだが。にしても、長いな、これ(211分)。 で、結局約3時間半、一気に見てしまった。ウイスキーのロック二杯を飲みながら。とにかく濃すぎ。徹底して俗悪な主人公を演じた佐分利信と原作者の山崎豊子、すげえよ。カタルシスは酒井和歌子演じる末娘の駆け落ちだけだもんな。酒とストーリーでフラフラしています。あと、娘婿役の田宮二郎、やっぱカッコいい。 その田宮二郎演じる大蔵官僚は最後に銀行局長になることが示唆されるが、銀行員だった亡父が「銀行局の課長は電話一本で都市銀の頭取を呼び出せる権力があるんだ」とか言ってたな。東大を受験する僕に間接的に官僚になるのを勧めたのかも知れないが、そっち方面には全く興味が湧かず、文学部の、しかもマイナー学科の宗教学科に行きしっかり裏切ってしまって、お父さん、ごめん(笑)。
「九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響」。Amazonでこの本を一つ星にしている人のコメントを見ると、この人々はなんと、当時、朝鮮人虐殺を引き起こした数々の「流言」を今現在信じている人々なのである。つまり、この人たちは、100年前に朝鮮人虐殺をした人々と同じ感覚で今の社会を生きている。形を変えてーなにがきっかけになるかわからないがー同じようなリンチと虐殺がまた起きる可能性は100年後の今でも同じ程度ではないだろうか。
このニュースをみて、林志弦『犠牲者意識ナショナリズム』(東洋経済新報社)にある指摘を思い出した。
「加害者がアーカイブと歴史の物語を支配しているのに対し、被害者には経験と声しかない。否定論者は、そのことをよく知っている。不確かな証言ではなく、確かな文書へのこだわりは実証的否定論を正当化する。ホロコーストを命じるヒトラーの署名入り文書が一通も出てこないから、ヒトラーの責任を問えないという具合である。命令書が空からひらひらと降ってでもこない限り、ホロコーストは生存者の証言ででっち上げられた話だと否定される」(p.291)
ということで、本日、島薗進編著『これだけは知っておきたい統一教会問題』(東洋経済新報社)発売です。アマゾン以外でも、どうぞよろしくお願いいたします。
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実はこのところずっと40年以上前の田宮二郎版「白い巨塔」を見ていた。裁判の証人になるだけではなく、東佐枝子(島田陽子)の色香にも迷わなかった里見先生(山本學)、マジ聖人。てか、この時の島田さん、本当に美しい。この物語、結末も知っているのに、何故ここまで惹かれるのか。最後は男同士の友情だからか。あと、「ある意味、裁判シーンで勧善懲悪のカタルシスを与えながらも」「ピカレスク的かつ魅力的で能力のある主人公が志半ばで斃れる」という二つの物語のエッセンスが時代を超えて訴えかけてくるのかも知れない。
2003年度版の唐沢寿明・江口洋介のコンビは背の高いイケメン同士で、ますます「バディ感」が強かったような気がする(こっちも好きだが)。
余談だが、医者をやっている高校時代の旧友に「俺、教授になったよ」と言うと「お前、そんなにすごかったっけ」と言われたので「いや、文学部は象牙の塔ではあっても白い巨塔じゃないから」と答えた。
夏の甲子園で慶応が優勝したというニュースが流れてきて、以前にNYTのポッドキャストで米国での教育格差を取り上げたとき、大学入学に際して米国では学業以外のたとえばスポーツの成績なども重要な考慮対象になるのだけれども、スポーツの成績にも経済階層が如実に反映しているので(遠征などに必要なお金を出す必要がある、あるいはそもそもエクスクルーシブなスポーツであるなどの理由)、スポーツの成績も富裕層の子どもの方がはるかに良く、格差が拡大するだけの結果になっている、という話をしていたことを少し思い出しました。
米国の場合、その例外がアメフトとバスケットボールだそうで、その二つが圧倒的に国民的人気のあるスポーツなのであまり気が付かれないけれども、実際には野球もバレーボールも全て富裕層の子どもに有利に働くようになってしまっている、と。
そもそも夏の高校野球なんてやめろよとは思うものの個々の選手は個々に頑張っているわけでそこにケチをつける気は毛頭ないのですが、その解説を聞いてちょっと暗い気持ちになったのを思い出したので。
https://www.nytimes.com/2023/07/27/podcasts/the-daily/college-legacy-admissions.html?
20年ぐらい化学で飯食ってると、「科学的」に安全とされていた物質が後から「実は安全じゃありませんでした」なんてのはとてもよくある話なわけで。だから、今安全とされているからと言って、自然界に無い物質を取り返しのつかない方法で放出するのは、極めて慎重にならないといけないのですよ。
しかし普段あんだけ「国際社会の厳しさ」だの「外交のリアル」だのと「ヘーワボケしたお花畑に生きるニポンジン」に厳しいご意見を開チンされていらっしゃる方々、まさか「科学的に正しい知見」とやらを唱え続ければ中国も解ってくれるはずだとか思ってんじゃないだろうな。それを「お花畑」と呼ばずしてなにをそう呼ぶのだ
岸田首相や東浩紀などはまるで「アルプス汚染水」を流すことが廃炉につながるかのような悪質な印象操作を行っている。
実際は廃炉の目途は全く立っていない。現在1-3号機に全体でデブリは約880トンある。
このデブリの取り出しは遠隔でのロボットアームによるとされているが、1回目で取り出せるのは数グラム。しかし、これさえ可能かどうかはわからない。廃炉検討委員会でさえ、「廃炉計画に具体的見通しがあるわけではない」と述べている。
要するに、万能感を演出しているIOTとAIと組み合わせても、全く「廃炉」の目途は立たないわけである。
ところで今日の日経コラム「春秋」は「海容」という言葉と汚染水「海洋」放出について語っている。
「原子力発電の事故という人間の大きな過ちを、海は受け容れてくれるだろうか」
これ、得意の「一億総懺悔」語法である。原発事故の責任は東電と原子力ムラにあるのであって、立ち退かされたり、漁業に携わる人々にはない。
「少しづつ流すご海容を願う姿勢」を「海は見ている」とコラムは終わる。
しばし絶句である。
ここには汚染水を流される側の韓国、中国、台湾、香港、マカオの人々への責任は全く登場しない。
これで「一国平和主義」の限界などと宣うのであるから笑止千万である。
怪談といえば、最近の心霊スポットで石見銀山の「千人壺」というところの話があったのだが、そりゃなんか出そうないわくのある場所だが戦国時代からあるんだしいまさらなあ、と思ってたんですよ。
そしたらなんと心霊スポットと認識され始めたのは2007年に世界遺産登録されてからだと言うんですね。
世界遺産登録に際して石見銀山も「漂白」されたんですが、その時に「石見銀山で労働させられていた囚人たちが死ぬと放り込まれていた竪穴」であるところの「千人壺」は、世界遺産の認定から外されたどころか、ここがどんな場所か説明されていた案内板すら撤去されてしまい、それ以来「出る」ようになったということらしいです。
なんというか、久しぶりにいい怪談を聞いたな、という気分になりましたよ。
何百年たとうとも「死んでるからって舐めとると出るぞコラ」という千人壺のパイセンたちの根性を見習わなければ(;´Д`)
温暖化にしろ、オゾンホールにしろ、海洋重金属汚染にしろ、マイクロプラスチックにしろ、地球規模で薄めりゃ問題無いだろうというのが成り立たないことが明らかになってきて、じゃあどうすんのと問われているのがここ50年ぐらいの先進国の立ち位置なんだけど、わが国は後進国まっしぐらだからなあ。
こういう話がどれだけ出てきても、国は選択と集中を絶対にやめないんだろうなとは思う。「広く浅く」分配するというのが耐えられないんだろう。
おそらくだが、国には研究者に対するきわめて根深い不信感があり、競争を促進し、管理を徹底しないと、すぐに怠けるとみなされている(以前、文科省の人と話したときにそれを感じた)。だから膨大な書類作成と厳格な規則で縛るしかないという発想になる。
もちろん、実際問題として何もしない人というのは確かにいるのだが、そういうふうに縛れば縛るほど、研究成果はでなくなる。
いわば『日本は植民地で「良いこと」もしたのか』ということを明らかにした岩波ブックレットが復刻。今話題の「ナチス本」と一緒に、この機会に是非お買い求めください。
『日本の植民地支配ー肯定・賛美論を検証する』
https://www.iwanami.co.jp/book/b254090.html
川瀬貴也。大学教員。宗教学者。専門は日韓近現代宗教史。宗教学、思想史、近代文化史、社会学の周辺をぐるぐるしているつもりです。発言は個人の見解であり、所属とは無関係です。