学校の健康診断で子どもが服を脱がされる問題についてであるが、米国やドイツでは問題になることがない話である。なぜなら、学校で集団検診をすることがないから。
とはいえ、集団検診自体は、私は日本に残っている素晴らしいシステムの一つだと思っている。家庭の事情にかかわらず、健康状態を把握できるのは、たとえば貧困やネグレクトで医者に連れて行ってもらえない子どもにとっては、少なくとも家庭以外で医療へのアクセスが確保されることになる。セイフティネットのひとつだ。
一方で、集団検診は軍隊のようでもある。子どもの健康状態を公的システムが管理下に置く、ということでもある。バイオポリティクス。同時に、本来はプライベートであるべき情報がより多くの目にさらされることになる。「服を脱ぐ」ことの問題もそこにある。
懸念しているのはプライバシーを強調しすぎると、あっというまに子どもの健康状態も「自己責任」になりかねない、ということである。義務教育を無駄なコストと考える人々にとってのわたりに船、になってしまう。
最近、中村哲也さんの『体罰と日本野球』(岩波書店)を読んで、その内容から敷衍して宗教の現場におけるハラスメント問題についてちょっとしたエッセイを書きました。内容紹介で少し字数を稼ぎましたが・・・(笑)。やはり戦後の「軍隊帰り」の指導者って、影響が大きいですよね。近年ではいわゆる「雷親父」が戦場でのPTSDだったのでは、という研究も進んでいますが。
エッセイの最後にも書きましたが、大学教員だって、やはり「ハラスメント」に親和的な職業ですし、体が貧弱でも、実は「体育会的」なノリがありますよね。僕も例えば、深夜まで院生室の明かりがついていると「大変だなあ」と言うよりは「お、頑張っているな、感心感心」と思ってしまいますし、YouTubeの元プロ野球選手の番組を見て「昔は理不尽なしごきがあったものだなあ」とつい笑ってしまう自分がいます(特に僕は、桑田・清原から立浪たちを擁するPL学園が一番強かった頃が中高生ですので、彼らの話を面白がってしまうのです)。文字通り「自戒をこめて」書いたエッセイです。ご笑覧ください。
https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/jiji/20240517.html
ETV特集の「汚名 沖縄密約事件 ある家族の50年」、録画を眺めた。名作。西山夫妻はすでに故人だが、妻がディレクターに残した日記を中心に、話は展開する。
密約スクープをものにした西山太吉であるが、「外務省の女性官僚を籠絡し密約の書類をゲットした記者」という男女関係のスキャンダルにすり替えられ、密約自体の問題はかすみ、西山は新聞社からおいやられて失意のうちに何十年も過ごす、という強烈な話である。ドキュメンタリーはそれを横で見続けた妻の西山啓子の日記から描き、なおかつ取材を通して長くそこに関わってきた女性のディレクター自身もドキュメンタリーの一部になっている。
この事件の本「密約」を書き、今や90を越えた澤地久枝のしごと部屋を、ディレクターが日記を携えて訪問するシーンがある。日記を手渡す一瞬、かっと見開かれる澤地の目の迫力が強烈。歴史を見据える目である。よくぞ撮ったり、と思った。
ETV特集ならでは。昨今、NHKは堕落したが、ETVにはジャーナリズムの気骨が残っている。
再放送は5月16日(木) 午前0:00〜午前1:00。
https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/NR3N34M4Y7/
アメリカの報道メディアで、デモをしている学生達のことをいつもPro-Palestineと言ってそれが「antisemitism」の暗喩というか犬笛で、絶対にanti-war とか against genocide とか言わないのが気になって気になってしょうがない。インディペンデントメディアじゃないとPro-Palestine以外の言い方をしない、それほど強いバイアス。
これって、Pro-ChoiceのことをPro-abortionとワザと言って、イメージを植え付けるのと同じムーブで胸糞悪くなる。
暴力による選挙妨害とは、ナチスとまったく変わらない暴挙で決して許されるものではありませんが、この「つばさの党」に限らず、旧NHK党や参政党、日本保守党など、もはや日本の選挙は政治ゴロや陰謀論者、極右の巣窟となりつつある感があります。こうしてまともな人間が政治から離れていった結果、ますます政治不信が進むという悪循環をどのようにして止めるのか、それこそが今後の課題となるのでしょう。
※私はこの問題の対策として、「政党助成金と供託金の廃止」を提案します。政党助成金という利権があるから、国政選挙に政治ゴロが群がるわけで、それを廃止した上で、問題のある候補者の排除にはまったく役に立っていない供託金も廃止し、米国やフランスのように「住民による署名を一定数集める」制度に変更するのがいいと思います。
完全に個人の意見なんだけど、もうLINEて最初みたいなSNSじゃなくて実際に顔を合わせた人達の、特にグループトークに特化した連絡ツールの面が大きいと思ってて。
だからともだちになるわけでもない、グループトークに出てくるだけの、でも業務として関わる人がよくわかんない名前だとめちゃくちゃ困る。名前書き換えちゃってくださ~い!ってともだちにならないと(相手に通知がいく&承認が必要)名前書き換えられないからクソめんどいし、名前に個性出されても興味ないんで最初からわかりやすい名前にしてて欲しいです。
愛媛、高知、大分方面の地震、大阪市内の知人は何人か揺れを感じているようだ。京都市左京区は何も感じないが、やはり大きな地震の速報を聞くと「その辺りに原発は?」と思ってしまう(この場合伊方原発だが)。
敢えて大雑把な言い方するけど、「新期造山帯」に原発作っちゃいけないよな。「古期造山帯」でも、チェルノブイリみたいなことになったら終わりだが。もちろん、原発というシステムが日本において搾取の構造をとっていることも大きな問題なのだが。
また痛ましい事件が起きた。
自分の研究者人生をつらつら思い出すに、酷いアカハラ、パワハラにほとんど遭わずに済んだ、という僥倖をかみしめねばならない。出身研究室の先生方は皆さん良い方だったし、男女別なく「平等に就職口が少ない」分野だったので、それもあって和気藹々だったのだと思う。僕の元同僚(定年退職した女性教員)は、「私の時は、女は男の2倍の業績がないと推薦してもらえなかった」と恨み節を言っていたが、そういう人に限って、「私はもっと苦労しました」という姑根性でパワハラ、アカハラするんだよな(僕も被害者)。まさに負の連鎖。
もちろん、僕が男性であることで、差別や「壁」をそれほど意識せずに済んだ、というのもあると思う。周りを見ても、友人で指導教官と「相性」が合わず、院を辞めたり、他専攻に移ったりしたの、知っているからなあ。「ここでしか」という思い込みは危険だよな。逃げるのは恥ではない。
自分の勤務先の学生が、大学の「外」で器物破損、交通法規無視、未成年飲酒などの「不祥事」を起こしても、正直「知らんがな」と言いたいところ。だって、物理的にも「目の届かないところ」でおこなわれているんだし、大学生は参政権もある一応成人なわけだし。大学構内なら、それなりに責任は出てこざるを得ないとは思いますが(うちの大学も、過去にアル中死亡事故が起き、そのサークルは取り潰された)。
世の中には暇な奴らがいて、ネットで嫌がらせをする対象を見つけようとウロウロしている(いわゆるインターネットトロール)ので、大学が「過剰に防御的」になるのも判るんですけどね・・・。
例えば過去に、僕の某ゼミ生は「酔っ払ったまま自転車で帰宅したよ~(大意)」みたいな事を呟いて、それがトロールに見つかって「お前のところはどういう教育してるんだ!」と大学事務に嫌がらせの電話が来たことがあった。その時の事務の方が気を利かせて「はい、その学生の指導教員からきつく叱っておきますので、ご忠告ありがとうございました(棒)」と向こうが続けて何か言おうとしているのも無視して電話を切って、その後僕にこっそり「先生のところのゼミ生と思うんですが・・・」と教えてくれたことがあった。この程度の対応で十分すぎと思います。
先日の投稿の答え合わせのような記事が上がってきた。
令和の現在でも女子大は「女子は大学行っちゃダメ」と親から言われる子の解決策になってる側面がある - Togetter
https://togetter.com/li/2336907
女子大に勤める身としては、女性だから大学に行く必要はないと言われた経験については、「そうですが?」という返答以外ない。もっというと、地方短大に勤めていたときにはもっともっと耳にした。こういうジェンダー格差は見えない人にはまったく見えないものなので、素朴に「能力」とか言えてしまうのです。
女子大の意義は、私が強く感じているのは、直接的なジェンダーバイアスがほとんどない世界で(つまり男性に遠慮したり視線に気にすることなく)、のびのび学ぶ空間であるということ。あるゼミ長だった卒業生が、共学だったらリーダーなんて絶対しませんよ、男に任せますと述べていたことがずっと胸に刺さっています。その学生はかなりリベラルな学生ではあったけれど、ある種の自分を守るための「世間知」として発言したのだと思います。
まあそういうこと。幼少期から「勉強しなくていいよ」「リーダーなんてしなくていい」と言われ続けた人と、そうでない人を「能力の違い」なんて素朴に言えるとしたら、社会のことをもっと学んだ方がいいよとしか。
この新書をさくっと読了。著者は東大のアメリカ研究者。
確か僕の入学年度(1990年)でも女性学生は全体で20%、僕のいた文科三類(文教育学部)でも30%程度だったと記憶している。女性比率は徐々に増加すると能天気に思っていたのだが…。
この書で一番驚いたのは、東大合格者数のトップ20の高校が殆ど男子校で占められていることと、その20校で全体の4割を占めているということ(pp.42-7)。そりゃ名門の占める割合が多いのは知っていたが、ここまでとは思ってなかった。あと、プリンストン大学の共学化が1969年というのも驚きだった。
そう言えば2年生の時に新入生向けに作った「オリエンテーションパンフ(語学クラスの上級生が作る伝統があった)」に、同期のF元さんが「駒場女子トイレ地図」というページを作っていたのも思い出した。それくらい少なくて場所も限られていた、ということですね。今はさすがに改善されていると思うが。
矢口祐人『なぜ東大は男だらけなのか』
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1203-e/
あまり報道されていないけれど、三年に及ぶ粘り強い住民運動によって、京都北山エリアの再開発が止まった。
この計画は、①京都府立植物園の再開発、②京都府立大の体育館のアリーナ化計画、の二つが大きな要素になっていたのだが、①が一年ほど前に、②がつい先日、見直しが発表された。
https://nakaraginomori.com/
むろん、老朽化した体育館のための予算や、移転先の向日町でのアリーナ計画がどのようなものになるのか、注視する必要はある。ただ、住宅街ど真ん中の無謀な開発計画が中止されたことを、ひとまず喜びたい。
先ほどもまた『ちいかわ』2巻の「草むしり検定編」を読んで涙ぐんでしまった。僕にとっての「オールタイム泣ける話」の一つに認定。僕にとってのそれには「ステラーカイギュウの絶滅」と「かわいそうなゾウ」「盲導犬クイール」などがあります。全部動物がらみだな。
ただ、「かわいそうなゾウ」の実態は、「空襲が激しくなったから殺処分」ではなく「空襲前に、戦意高揚のために殺処分」という重要な指摘もあります。以下のブログを参照。殺処分命じた奴が戦後も政治家(何と文部大臣)として生きていたっていうのがますます嫌になる。/反戦童話「かわいそうなぞう」が露呈した戦後平和教育の欠陥 - 読む・考える・書く
例えば、信号機が未だ色分けしかされてないの、あれは色盲・色弱の人に対する合理的配慮に欠けてるのか?と言われたら、そうだとしか言えないと思う。
そもそも色「だけ」に重要な情報伝達機能を担わせるからいけないのであって、例えば青い丸、黄色い三角、赤いバッテン、などにすれば、色覚マジョリティは今まで通り色に持たせられた意味で判断できるし、色覚マイノリティは形状をもとに情報の意味を判断できるようになる。
今まで色覚検査で弾かれて運転免許が取れなかった人も安全に運転できるようになるだろうし、赤が判別できないとされている盲導犬だって形状で判断できるようになるかもしれない。
一応、昼間なら信号灯の並び位置で判断することも可能だけど、夜は難しいし、並び位置だけで迷わず判断できるならそもそも色分けする必要はないし、免許取得に制限をかける正当性もないことになる。
しかし、実際は、マジョリティ視点で恣意的に決められた、色のみによる情報識別を強要する信号機のルールに対応できない人々を排除してる。
今すぐ全国の信号を交換するとなると膨大なコストがかかるけど、老朽化した信号機を入れ替える際に新方式にするなら、追加コストはほぼ無視できるから、経済合理性の話ですらない。
重要な社会インフラである道路交通の安全性を担保する上で要となる公共設備が、色覚マジョリティの都合だけを考えて作られ、運用されてる。なのに、この話をしてる人なんてほとんど見たことない。
「合理的配慮」以前の問題として、そういうふうに問題が存在すること自体が認識されていないことって、他にもいくらでもあると思う。
イオンシネマの問題、詳細は知らないけど、ペケでバカの展開する小理屈だけは手に取るように解るな。
どうせ「現場を知らない素人は簡単に車椅子ユーザーを映画館に入れろというけど、避難誘導の困難が/車椅子自体の危険性が/対応するスタッフの専門性が」だのウジャウジャ言って無理筋擁護してんだろ。
「それが素人の浅はかさ、実際にはこんな問題が」みたいな小理屈つけて「現場を知らない素人」を小馬鹿にするバカで溢れかえってたよねあそこは。そしてまたそんなんバカのツッコミどころしかねえような小理屈を聞いて「そうだったのか!目からウロコ!(実際は目にウロコが飛び込んでいる)」とか言い出すさらに下のバカがさらに大量に棲息していて
何人かの方が「思想が強い、だなんて陰口言われて怒らないなんて寛容だなあ」とおっしゃってくださいましたが、20年以上大学教員をやっていれば、この程度のことに目くじらは立てません(笑)。僕が陰口にリアクションしないのは、自分の考えもろくにないのを相手にしても不毛だからに過ぎません。要するに、「役不足」だから放置です。例えば僕と正反対の思想を持っていても、まだその方が「議論」になります。
彼らの「未熟さ」は「伸びしろ」でもあるので、教育者としてはその伸びしろを信じるのみです(教育者としての最低限のモラルと思っています)。ただ、大学は「積極的に教わろうとするものを依怙贔屓して良い場」であるとも思っていますので、僕の研究室の扉をノックすることさえしない学生は冷淡に放置するのみです。
川瀬貴也。大学教員。宗教学者。専門は日韓近現代宗教史。宗教学、思想史、近代文化史、社会学の周辺をぐるぐるしているつもりです。発言は個人の見解であり、所属とは無関係です。