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視力 さんがブースト

トッポっていくら食べてもおいしい

ただ、この話はスピリチュアル側も"芸"でやってるという構図が大事なわけで、なので有吉さんや伊集院さん東野さんは領域を選んで行っているのだと思います。

このノリ自体が、もっと広い場所で参加人数も増えて大規模コンテンツでやっていきましょう!ってなってきたら、

それはもう
「占い師叩き」という新しいスピリチュアル

になってしまっている状態なんだと思います。

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と同時に、
こういうツッコミ芸をおもしろいなぁ…
って眺めてながらも個人的に感じるのは、

"信仰心"や"倫理観"みたいなものが

出来上がってゆく朧気な過程的なものを漠然と覚えます。

なんというか、上岡さんや松尾さんとかはいわば"信念"みたいなものがどうしようもなくあって、それがバラエティ番組の中でも曲げる事が出来ない(ことをギリギリでショーにしてるんだと思う)別に本当のところでは正義感とかでやってるようなものでもないのだろうし、ツッコミをしてたらそうなっていってしまった…というある種の過剰さが人間味として商品になってるんじゃないかと。

ただ、それを見ていた人達に情報が波及してゆく過程で、そのコミュニケーション形式だけが時間経過と共に受け継がれてゆく

そうすると、なぜそれを批判していたのか?という部分が抜け落ちて「オカルト叩き」という快楽性だけが残ってしまう

有吉さんの世代がそれを受け継いでいるのだとしたら、そのパフォーマンスのマニュアル性だと感じます。

それはそれとして虚実のセーフティネット的な機能をあるのかもしれませんが、同時に「叩く」という行為の波及にもなってしまっているとも思う。(有吉さんはそこは敏感だと思いますが…あと島田秀平さんの受け身が綺麗すぎる)

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上岡さんの霊能者やUFO肯定派への批判は、オカルトブームの頃に対立の構図でショーを行っている中で、ややリアルファイトをしていた(事に本人の自覚があった…けど過剰になっちゃう)タイプ

同属性に松尾貴史さんとか、あと最近だとアンガールズの山根さんがラジオで島田秀平さんに対して理詰めしていってほとんど笑いが起きなかったやつ…とかと似た代物
端的に言えば「自分の大人げなさ」を面白さにしている部分が比重として大きいと思います。

対して、有吉さんはもっとプロレス的かつキャンセルカルチャー前提の見世物的。オカルトじゃなくて、その延長線上のスピリチュアル的な領域を携えている"人物批判(いじり)"なので、もっと内省に迫っている。というか、逆を言えば「占いなんてファンタジーに決まってるじゃんw」という共有を観客視聴者と踏まえた上での論破コント。「占い師以外の全員の大人げなさ」を背負って、その代表者として面白いトークをしている。過激なファンや陰謀論いじりとかも。

これは、伊集院光さんが心霊番組を「蜂の入った箱」に例えていた話や、東野幸治さんが「オーラの泉」に終始ニヤニヤしながら半分乗っかってゲスト出演していたやつとかと同じラインの批評芸だと思う。

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上岡龍太郎のオカルト叩きを
有吉弘行のスピリチュアル叩きは
遺伝子として受け継いでいる、という論調があるけど、ちょっと違うと思う 。

なんかたぶん一番弄られているような

「「天才はあきらめた」とか言いながら、
本当は誰よりも「天才ポジション」を目指しているんでしょw」

みたいな観点も本当は違うと感じてて

なんか山里さんはもっと、
『快楽主義』的な気質なんだと思います。

上昇志向があるようで、ない。

それがへり下り芸によって、「本当は誰よりも上昇志向があるのに、それを隠して影で努力している」という部分がイメージとして膨れ上がり過ぎてる気がします。
(それをタレントとして利用してるけど。というか、やってるうちに本当に"自分は嫉妬心があるんだ…"と錯覚していってるように見える)

なんか、春日さんが学生時代に若林さんに襟足を切られ続けて「何をされても動じない男"春日"」になってしまったように、

山里さんも芸人になった事で「過剰に自尊心を削られて、それをアイデンティティにして嫉妬心を無理矢理募らせている男"山里"」に変質していっているようにも思える。

山里さんはもっと単純に

ツッコミワードを場面に上手くはめてウケを取るゲーム

に享楽しているだけだと思います。

自己実現とか芸能界の権威とか、そういったものに本質的には興味がないんだと思う。
わかりにくい変態。

だから、ラサール石井にツッコミを誉められた事だけ異様に覚えてる。

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なんと言うか非常にニュアンス的だし憶測の域を出ない感想なので説明しずらいのですが、

「天才はあきらめた」と言ってる段階で、
「天才を目指していない」のがわかってしまう

という身も蓋もない事を思います。

いや、これは
否定しているわけでも揶揄や嘲笑冷笑的な視点でもなくて本当になんというか、

そういう構造のおもしろさ

なのだという事を一番覚えているのです。

例えば、

"「天才はあきらめた」と言いつつ、
「そんなことないよ山ちゃんは天才だよ」という言葉を貰えるように空気を誘導している"

とか

"「天才はあきらめた」とは言ってるけど、
それをこんなに自覚して努力できる山ちゃんは間違いなく天才だし、なによりあんなツッコミワードを瞬時引き出せるのは天才の証拠"

とか

"全部ひっくるめて天然、だから面白い"

とか

それらの角度の見方を全部こう吸収されてゆく感じがある。なんか山里さんのネタに参加させられているような気持ちになる。かといって、そこまで策士なのかと言われるとそうでもない気もします。

なんかたぶん山里さんは、
本質的には「天才」に興味がないのだと思う。

実は、
「勝手にひとりでなんかやってる人」なんだと思います。

山里さんにとって"天才"という概念すらワード的。自虐笑いの道具。

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90年代頃の松本人志が中心メディアの中で自ら"天才"を自認しながらカリスマ化していった手法は、自己設定したハードルを飛び越えてゆくマゾヒズム的なアプローチの芸であると同時に、近い境遇の領域から洗脳のような空気作りを施してゆく誘導芸でもあったわけですが、

それって、今だともう真正面からは行使するのが難しいんだと思います。

(芸人の絶対数も増えたのだろうし、そのアプローチを行った段階で他の横並びの芸人達に弄られてしまうのだと思います。あと絶対的な中心メディアが不明瞭になってて、それぞれが分断的に存在しているためにプレイヤーは横断を余儀なくされカリスマ化ごと権威領土を拡大しにくい)

なので、表明せずに実質的に周囲から天才的な評価を得ることでカリスマ化を育む、というアプローチの手法になってゆくのだと思います。

やってる事は誘導芸なんだけど、そこに自認がない。

ここら辺の話は、陰キャ陽キャ理論とか、人見知り芸人的な表明とか、そういった他者からの価値規定による自己実存(社会参加)みたいな事とも繋げられるとも感じますが、難しそうなので今は置いといて、

つまり逆説的にそういうポジションを目指しているのでは…というのが伺える気がします。

そして、その上で山里さん、
彼は「天才じゃない」と自認しています。

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これは、
オリラジ中田さんが「PERFECT HUMAN」だと自ら鼓舞する事で笑いを取っていたり、
ラッセン永野さんが「カリスマ地下芸人だった頃~」と半分自虐で語ってたり、

そういうような一周回ったボケ

の構造をしている自己プロデュース芸なのだと思うのですが、

山里さんのアプローチはツッコミ芸人のテクニックの一種として"過剰なへり下り"を常備していて、それが相反可能なボケとしても機能させているので、その降り幅の中でそれが自己啓発的なニュアンスも含みながら"本気"だとも捉えられるように設計してあるんだと思います。

もちろん、本人の性格を土台にしたキャラクター造形であって、それを一面体だけの虚構だと捉えるのは、また違うとも感じるのですが。

ここで言っている「天才」がどういうものを指しているか、という事になるのかが重要だと思います。

なので、
むしろその"天才への意識"という点で見ると、

以前有吉さんに
「スタジオ入りする時に"お笑いの天才"みたいな顔して歩いてきやがる」
みたいな弄りをされていた、若林さんの方が『本気』なんだと思う。

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「天才はあきらめた」という自認を表明している段階で、南海キャンディーズ山里さんは、"そういうタイプの天才"を目指していない事が感じられる。

途中、永野さんのライブを
「信者に向けてやってる」とツッコミを入れていましたが、その縮尺と規模を変えたものを基本的に井口さんも行っているのだとは思います。
(オリラジ中田さんのテレビ批判芸とかもこういう仮想敵対)

これらから感じ取れるのは、井口さん批判ではもちろんなく、ましてやゴッドタンやバラエティ番組のマンネリ化への憂いですらなく、

冒頭に述べた、"加虐性"の一周

我々、視聴者、観客が、なにをサディスティックな潜在意識として求めているのかが変容したんじゃないかなと、ぼんやり感じています。

個人VS構造

みたいなものに共感や侮蔑を注ぐ快楽割合が高かった。今までは。

集団VS俯瞰

みたいな領域に暴力性や宗教っぽさとかも含まれながら昇華してる気持ちよさが出来上がりつつある気がします。最近は。

河本さんの流れブった切りすら、井口さんの統制の中に鮮やかに組み込まれてゆく様子に安心感すら覚えてしまいます。

井口さんがマジギライをハックしたのか、
マジギライが井口さんに乗っ取られたがっていたのか、

最後ビンタされずに終わってしまった事が、一番のダメージになっているかのような、そんな複雑な表情の井口さんを見て、鈍痛のようなエグられを擬似的に感じながら笑ってしまいました…

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話をマジギライに戻します。

で、そういう角度の付いたいじられ芸を見せる場から、段々とテクニカルな側面を魅せてゆく面白さに変わっていったと感じてて、

有吉さん、東野さん、鈴木拓さん辺りが
企画に乗っかりつつも解体したり批評的な目線での論破を加えたりしだして、

日村さん、澤部さん、中岡さんとかが
完全なるパターン化を美しくこなしていったり(味変として別室から相方が副音声を入れてたりしたけど)、

どんどん形式が出来上がってゆき、それに伴って女性タレント側の脚本量が増え、掛け合いのシュミレーションも高度化されてゆき、それが出来てない事すら嫌われ側の芸人がフォローしたり司会側が別軸を組み立てたりしてセーフティネットが張られ、

なんか最初の露悪リアクションショーの地点からは遠くなってきているのを感じていました。プレッシャーの種類が変質していってる。

そして、そこで井口さんの登場。
しかも、近しい同期芸人メンバーを引き連れて。
プロレスとしてほぼパッケージングされてる状態に近いものを。
なので、むしろ井口さん側にエグめの批評軸が発生してる。
キモ芸ダサ芸的なもののリアクションの方が薄くなってて、それを担保に美しい毒を吐いてる(しかも、割りといつもの)

一周したと思いました。

小木さんが最初に居た地点。

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ちなみに、
それの"ツッコミ芸人"バージョンが
「大声クイズ」という企画だったと思います。

マジギライの女性タレント側が、芸人さん達に成ってて、エグるような弄りというよりは、司会進行を全くさせないようなカオスコントを如何にさばけるか、という能力を問うような企画。

こっちの方が内面的なリアクション芸ではなくて、如何に型としてのツッコミ芸を歌舞けるか、を魅せてゆく構造なので、ある種の分かりやすい混沌があると思う。

これに(出るタイミング重要だけど)
ニューヨーク屋敷さん、ラランドニシダさん、東京03飯塚さん、辺りが出てほしいです。
上手い人がめちゃくちゃにされる所が見たい。

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そして、マジギライ5/1ですが
こちらは最初期はたしか小木さんが嫌われ側の席に座っていたと思います。

なんというかイメージなのですが、ゴッドタンって実験的な企画の時プレーンなアクターとしてまず小木さんを設定してみる事が多い気がします。(仲直りフレンドパークとか、喧嘩の途中に踊り出すやつとか、マジ歌にベッキーが出たやつとか)

そのあとはアンガールズ田中さん、フットボールアワー後藤さん、アンジャッシュ児嶋さん、南海キャンディーズ山里さん、と続いていってて

なんか漠然とした印象なのですが、
「受け身」の上手い人達のショーだった記憶があります。
キモ芸とかダサ芸みたいなものを自分から打ち出しているタイプのいじられ芸人さん達が、女性タレントにいつもよりエグめに"自分のダメなところ"を弄られて、その時の本気の凹みを隠しながらいつものようにリアクションを取れのるか、的な文脈の追い込みが仕掛けとして組まれていたと思う。

(その中で偶発的にキャバ嬢あいなさんが発見されて、めちゃくちゃ芸人批評的なキャラに成ってゆく、という中期での分岐要素があったとも思います)

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ロンハーの格付けとかも、似たような要素があって互換性が高いと思います。
あれもまた、初期は「格付けしあう女たち」として、女性タレント同士がお互いを品評しあうようにトークを交錯させて、その瞬間に滲み出るような人間性を司会のロンドンブーツが弄ってゆきながら組み立ててゆく"露悪リアクションショー"が源流だったと思います。

ふと零れる言葉の刺やギスギスした空気、人間関係の中でのリアルマウント、打破されてゆくヒエラルキー、そういったものを傍観的に面白がっていた企画構造だったと。

ただ、それは歴史を重ねてゆく中で「格付けしあう男たち」「格付けしあう若手芸人たち」「格付けしあう売れっ子芸人たち」という感じの変遷を辿ってゆき、その過程で非常に"バラエティプロレス"的なニュアンスが磐石になっていったと感じています。リアルファイトじゃなくなった。

いろいろな理由があると思います。上記したようなコンプライアンス意識、ロンハーという番組自体の立ち位置、ロンブーの年齢やキャラ変化、主要タレントの潮流、明石家さんまが恋のから騒ぎを終わった時に「バブルの頃の女性はぶっ飛んでて面白かった」という理由を語ってたのも何かが関係してそうな気がします。

端的に言えばトレンドは変わったと思います。

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ゴッドタンのマジギライ「ウエストランド井口」回を見ました。面白かったです。

と同時に、嫌っている側のメンバーがほとんど井口さんと関係性の近い芸人さんばかりだったのが気になりました。

これは、この企画が長きに渡ってて回を重ねるごとにそういった人選へ移り変わってきた傾向があるとは思うのですが、今回井口さんが最初に言及していた通り、"女性タレントが一人しか居なかった"という状態は初めてだったと思います。

ここである程度ベターな視座を言うのであれば、やはり近年のコンプライアンス的な角度から、女性へ悪口を吐いてゆく構造が前提の企画(それがバラエティ番組内で芸人が弄られてのカウンター発言だとしても)に対しての炎上リスクへの防御策…とかだとも捉えられますが、

もう少し細かく捉えようとしてみると、
"この席に井口さんが座る"とこまで来たという、バラエティ番組に置ける加虐性が一周した事も意味しているのではないかと、個人的に感じています。

かと言って、アンタッチャブルのザキヤマさんとか程「素のトークを誇張演技でキャラクター化させてそのままどの場面でも基本的に同じように展開させる」というわけでもありません。

過剰演技化はあまりしません。

有吉さんは
「コント」と「トーク」の割合の中で
「役割」と「キャラクター」の変容が
すごく絶妙で、その間を捉え続ける事で面白さを提示してゆくのです。

なんというか"こういうキャラ"とか"こういうノリ"という成分だけで許させない。という感じ。

まず破綻しないし、脱構築的ではあるけどそれが建設されるまでがすごく長い。あんまり瞬間芸術的じゃないと思う。

これに近い感じは、伊集院光さんの深夜の馬鹿力でのトークとかで、たまに展開されたりしていると感じます。
あとアルピーの平子さんのお昼の番組対応してる感じのやつとか。

タレントイメージにまで突き刺して「うっすら設定のコント」を行っている。

あだ名芸の先に待っていたものは、実態の無いキャラクターイメージの言語化ゲームという、風間蝮親さんにしか出来ない面白さだったと感じています。

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こういったシームレスなコント能力みたいなものは、いわゆる漫才師的な「素のトークを誇張演技でキャラクター化させてそのままどの場面でも基本的に同じように展開させる」やり方と異なっていて、

例えばゴッドタンのレギュラーメンバーである、おぎやはぎや劇団ひとりとかも、そのような場面や対人によってキャラクターを微妙に変質させて面白さを提示してゆきます。バイキングで小木さんがコメンテーター化が促進されたり、劇団ひとりさんがゴールデンの番組では大人しくなったり、そういった傾向の表れであると思います。(だからこそ"解放区"としてゴッドタンや三四郎ANN0が存在しているのだとも思います。それは芸人さんだけでなく視聴者の潜在的な要望としても)

ただ、そういった関東コント師的な特徴で見ると、有吉弘行という芸人さんは上記したメンバーのそれよりも、"場面や対人によってのキャラの変質"が薄い。むしろ毒舌という要素は、自分のキャラクターを相手が把握している事を前提とした上で踏み込んでゆくトーク展開のテクニックなので性質だけで見たら真逆です。

周囲の"悪ノリ"的な空気でキャラが促進されない。
主軸はあくまで有吉さん側にある。

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この「うっすら設定のコント」を、場面や相手によって微妙に調節するというだけでなく、"タレントイメージ"的な部分にまで突き刺して運用させているのが有吉弘行という芸人の真価であると感じています。
そこに特殊性があるし、逆に言えば、コント自体の上手さ(さりげなさ)に関しては実はちょっと苦手意識もありそうな感触すらあります。

例えば、今回のラジオで言えば
「コント」という点に置いては三四郎の方が、可笑しさの提示がさりげないと思います(特に相田さん)。
素のトークも、ネタとしての漫才も、シームレスにボケ、ツッコミ、いじり、いじられ、メタ、ベタなどの役割と振る舞いを変容させながらも、全て"三四郎"というコンビの範囲内に収まっています。

むしろ常にずっと「うっすら設定のコント」を行い続けている、というような塩梅。
なので、ゴールデンタイムのバラエティ番組での小宮さんの立ち位置などが顕著ですが、ラジオの時と異なりリアクション芸人的な風味でキャラクター像が形成されて固定化されています。
これは視聴者や共演者などの需要としての"小宮"というキャラクターコントの全うであり、そしてそのコントの設定は番組を離れると(完全に分離することなく)降りる事が可能な代物になっています。

なので分人主義的な多人格を同時進行していると。

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三四郎ANN0の風間蝮親回を聞いて、
有吉弘行という芸人は、こういう事が得意なんだよな…と思い出させられるように感じました。

よく語られる有吉評に「昔の頃の毒舌が売れてから弱まった」的な解釈の前提で進み「その代わり今はMCとしてのバランス感覚、サンドリでのタガの外しっぷりが凄い」という理解が一般的なのだと思うのですが、それも間違ってないと捉えた上で、

毒舌キャラも、売れっ子タレントの立ち位置も、もっと言えば猿岩石の時のアイドルポジションも、

全部、風間蝮親的な「うっすら設定のコント」をしたままトークを展開させてるやり方なのだと思います。

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