「天才はあきらめた」という自認を表明している段階で、南海キャンディーズ山里さんは、"そういうタイプの天才"を目指していない事が感じられる。
90年代頃の松本人志が中心メディアの中で自ら"天才"を自認しながらカリスマ化していった手法は、自己設定したハードルを飛び越えてゆくマゾヒズム的なアプローチの芸であると同時に、近い境遇の領域から洗脳のような空気作りを施してゆく誘導芸でもあったわけですが、
それって、今だともう真正面からは行使するのが難しいんだと思います。
(芸人の絶対数も増えたのだろうし、そのアプローチを行った段階で他の横並びの芸人達に弄られてしまうのだと思います。あと絶対的な中心メディアが不明瞭になってて、それぞれが分断的に存在しているためにプレイヤーは横断を余儀なくされカリスマ化ごと権威領土を拡大しにくい)
なので、表明せずに実質的に周囲から天才的な評価を得ることでカリスマ化を育む、というアプローチの手法になってゆくのだと思います。
やってる事は誘導芸なんだけど、そこに自認がない。
ここら辺の話は、陰キャ陽キャ理論とか、人見知り芸人的な表明とか、そういった他者からの価値規定による自己実存(社会参加)みたいな事とも繋げられるとも感じますが、難しそうなので今は置いといて、
つまり逆説的にそういうポジションを目指しているのでは…というのが伺える気がします。
そして、その上で山里さん、
彼は「天才じゃない」と自認しています。
なんと言うか非常にニュアンス的だし憶測の域を出ない感想なので説明しずらいのですが、
「天才はあきらめた」と言ってる段階で、
「天才を目指していない」のがわかってしまう
という身も蓋もない事を思います。
いや、これは
否定しているわけでも揶揄や嘲笑冷笑的な視点でもなくて本当になんというか、
そういう構造のおもしろさ
なのだという事を一番覚えているのです。
例えば、
"「天才はあきらめた」と言いつつ、
「そんなことないよ山ちゃんは天才だよ」という言葉を貰えるように空気を誘導している"
とか
"「天才はあきらめた」とは言ってるけど、
それをこんなに自覚して努力できる山ちゃんは間違いなく天才だし、なによりあんなツッコミワードを瞬時引き出せるのは天才の証拠"
とか
"全部ひっくるめて天然、だから面白い"
とか
それらの角度の見方を全部こう吸収されてゆく感じがある。なんか山里さんのネタに参加させられているような気持ちになる。かといって、そこまで策士なのかと言われるとそうでもない気もします。
なんかたぶん山里さんは、
本質的には「天才」に興味がないのだと思う。
実は、
「勝手にひとりでなんかやってる人」なんだと思います。
山里さんにとって"天才"という概念すらワード的。自虐笑いの道具。
なんかたぶん一番弄られているような
「「天才はあきらめた」とか言いながら、
本当は誰よりも「天才ポジション」を目指しているんでしょw」
みたいな観点も本当は違うと感じてて
なんか山里さんはもっと、
『快楽主義』的な気質なんだと思います。
上昇志向があるようで、ない。
それがへり下り芸によって、「本当は誰よりも上昇志向があるのに、それを隠して影で努力している」という部分がイメージとして膨れ上がり過ぎてる気がします。
(それをタレントとして利用してるけど。というか、やってるうちに本当に"自分は嫉妬心があるんだ…"と錯覚していってるように見える)
なんか、春日さんが学生時代に若林さんに襟足を切られ続けて「何をされても動じない男"春日"」になってしまったように、
山里さんも芸人になった事で「過剰に自尊心を削られて、それをアイデンティティにして嫉妬心を無理矢理募らせている男"山里"」に変質していっているようにも思える。
山里さんはもっと単純に
ツッコミワードを場面に上手くはめてウケを取るゲーム
に享楽しているだけだと思います。
自己実現とか芸能界の権威とか、そういったものに本質的には興味がないんだと思う。
わかりにくい変態。
だから、ラサール石井にツッコミを誉められた事だけ異様に覚えてる。
これは、
オリラジ中田さんが「PERFECT HUMAN」だと自ら鼓舞する事で笑いを取っていたり、
ラッセン永野さんが「カリスマ地下芸人だった頃~」と半分自虐で語ってたり、
そういうような一周回ったボケ
の構造をしている自己プロデュース芸なのだと思うのですが、
山里さんのアプローチはツッコミ芸人のテクニックの一種として"過剰なへり下り"を常備していて、それが相反可能なボケとしても機能させているので、その降り幅の中でそれが自己啓発的なニュアンスも含みながら"本気"だとも捉えられるように設計してあるんだと思います。
もちろん、本人の性格を土台にしたキャラクター造形であって、それを一面体だけの虚構だと捉えるのは、また違うとも感じるのですが。
ここで言っている「天才」がどういうものを指しているか、という事になるのかが重要だと思います。
なので、
むしろその"天才への意識"という点で見ると、
以前有吉さんに
「スタジオ入りする時に"お笑いの天才"みたいな顔して歩いてきやがる」
みたいな弄りをされていた、若林さんの方が『本気』なんだと思う。