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せいやさんはまず、動きでボケを提示してて、それだけじゃ何かがあまりわからず、フワッとしたコミカルさでなんとなく可笑しさを醸し出します。

それに対して粗品さんが規定的にツッコミを放ち、それによってせいやさんの一連の動きが総体化されて、「そういう事か!」的な解釈のもと、意図と面白さが発生し笑いを生んでゆきます。

これは、粗品さんがせいやさんの行為の本質性を言語で体現しているからこそ、その意味が客観視も含んで伝達されているという状態。

繰り返しますが、
せいやさんは核心に近付かない、ほとんど意見を言わない、事によってどう思ってるかがなんとなく感じ取られる。

粗品さんに言いにくいことを言及させて、自分は「お笑いとしてのキャラクター」を守っているという見方も出来る。

というような性質が、漫才師としても同じような状態で形を成していると感じられるのが面白いです。真っ直ぐ。

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太田さんが法廷で繰り出したボケは、自己完結的だし、なんなら自分が不利になる行為をお笑い芸人として行ってるという感じなのだと思うのですが、

せいやさんの隙あらば笑いが取れるんじゃないか…という、ちょっとコントに入ってみる塩梅っていうのは、内容の陳腐さを踏まえているから問題視する程の事じゃないと言えど、上手くいってしまうと、それ自体が"許し"になるうる可能性すらある「キャラ芸」そのものだと思います(だからこそ、せいやさんはそこら辺にめちゃくちゃ敏感だしコントロールしているんだと感じる)

ここら辺の危うさというか、芸人としての漏れ出る色気みたいな文脈は、せいやさんが「いじめを克服したエピソード」を話す時に、感動的なヒロイズムを提示しながらも「自分はたまたまいじめを克服出来ただけ」という注釈を必ず付け加えるところにも表れていると思います。

芸人としてその話を持ち出しながら、ああいうキャラとして売れてゆく事の、見えない責任みたいなものから絶妙に距離を取っている…とも捉えられる。

せいやさんは常に振る舞いによって、空気を誘導し、キャラの補強を行う事が抜きん出て上手いと思います。

そしてそれは霜降り明星の漫才師としての役割分担に根差している個々の能力の天才性なのだと思います。

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この梶原さんや岡村さん的な
「キャラとして振る舞えてない」という事をショーにしている状態(なので本質的には"振る舞えてないキャラ"だから振る舞えている)

って、霜降り明星でどちらかと言えば、
粗品さんの炎上気味の発言や態度とかの方が構造としては近いキャラ性だと思います。("あえて"の態度も含めて)

西野さんや矢部さんの方がツッコミという役割であれど、それに対して「面白味」を空気感として足して提示している。

そして、西野さんや矢部さんはせいやさんと同じように、相方にある領域での誇張演技を任せているからこそ、自己管理含めて"お笑い的な空気"を生み出せている、という点で近いと思います。それがボケかツッコミかの違い。

せいやさんのそういった、面白味の保持と振る舞いが一番出ていた瞬間は、Zoom騒動後のポケひみ、ではなく法廷で笑いを取ろうとした瞬間だと思います。

太田さんが空気読めないキャラみたいなのを前提としかながらヤバい人として行うギリギリ露悪お笑いみたいな行為、と違って

せいやさんのアレは、振る舞いとうっすらとした主張が、直結していると思う。

めちゃくちゃ"空気誘導芸"だと思う。

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霜降り明星のカリスマ性は、キャラクターとして粗品さんから発してるのはもちろんですが、
それを中和しお笑い芸人としての国民性的なものを生んでいるのは振る舞いとしてせいやさんが担っていると思います。

このコンビバランスを見た時に感じるのは、
せいやさんのポジションの方が、その空気感の保持が難しいんじゃないかなと、いつも思います。

有名になればなるほど、キャラとしての面白みって絶妙な匙加減が求められると思います。誇張演技がわざとらしくならざるを得ない。でも、せいやさんという人は、人間性もある程度伝わらさせながら、芸人像もそこそこ崩さず維持してると思う。

これって、なんというか
「大人の意見」「ハングリー精神」「周囲を黙らせるほどの結果」「権威や大衆への政治的な表明」
などを限りなく脱臭しているから可能にさせてる共同幻想。

それらを、粗品さんに全部やってもらってる。

例えばキングコングとかナインティナインとかと比べると、せいやさんは梶原さんや岡村さん程、キャラから出てない割合が高いと思います。年齢とかも関与してると思うけど。周囲の空気感としても、せいやさんの面白味って「聖域」っぽさがちょっとある。梶原さんとか岡村さんって、もっと「面白キャラとして振る舞えてない」って事をメインの笑いにしてたりします。

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逆説的に考えてみると、粗品さんの発言や振る舞いから、せいやさんの語らずとも滲み出ている考えや想いが伝わってくるような気がします。

別に完全に同じ意見というわけでもないだろうし、同じだとしても言い方考えてほしいと思っているかもしれませんが、

THE SECONDの腐し大喜利も
オリラジ中田さんの松本人志批判も

その話題に対してフワッと触れたり、過剰にガワの部分に反応にしたりして、基本的にはお笑いに持っていっているけど、むしろ核心には近付かない、意見をほとんど言わない、事によってどう思ってるかがなんとなく感じられるのが面白いです。

なんなら、大抵の視聴者は
粗品さんの炎上気味な姿勢に対して
せいやさんがフォローしつつお笑いの空気に変えている
という認識だと思うしそれは間違ってないと感じるのですが、反対に考えると

粗品さんに言いにくいことを言及させて
自分は「お笑いとしてのキャラクター」を守ってる

という見方も出来ると思います。

個人的にはTHE SECONDへの腐し大喜利とかもその文脈で面白かったと感じているのですが、構造的には、最上もがさんがUberEatsへの炎上ツイートをした時のような、背景への想像不足(というか、その上でそれを無視するというボケ)が世代的なものを含めて表出しやすいタイプなのだと感じます。

その発言や振る舞いが垂れ流される瞬間は土台の天然性が要因なのだけど、それも含めて「どう思われても構わない」というスタンスの演じきり(なので、本当にどう思っているかは別。そういう振る舞いが出てくる理由は他にあるのだと、勝手に感じています)

それも含めて粗品さんの才能だし魅力なのだと感じています。

騒ぐほどの事でもないっちゃないと思いますし。

南ちゃんが狂言、有田さんがプロレス、博士さんが政治、だったように、粗品さんが芸人的な場所以外で"演じきり"を発散出来るような地点があるとまた変わってくるのかもしれません(ギャンブルは演じきりではない)。

粗品さんにとって、毒を吐いたというより、そういうツッコミをした、という認識なだけだと思います。

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なおかつ、その上で粗品さんはそれを「舞台監督」的なフォームで出力してゆく。

これも常々感じているのですが、粗品さんは漫才師として「外側」からツッコミを入れているんです。せいやさんという運動的なキャラクターのボケに対してその都度その都度、規定的にツッコんで視座を提示し笑いに変えてゆく。これはとても"演出的"だと思います。

自身が出ている側でありながら、せいやさんという中心的存在にスポットライトを当てる役割によって場を成立させてゆきます。なので、ちょっと構造部分に食い込んでいる。"演じきり"的な才能でありながら、外部に隣接していて参加者を募っている。観客ごとうっすら演じさせるような支配性が役割の中に組み込まれている。

これは、
ウッチャンナンチャンの南原さんや、
くりぃむしちゅー有田さん、
浅草キッドの水道橋博士さんとかと似た気質だと思います。

自身が型の模倣を芸としているので、観衆の盛り上がり含めて意識的な演じきりの促し傾向があるのだと思います。

これが毒舌的な文脈と絡んだ時に、内圧からの攻撃性を物理的に生んでしまうのだと思います。(それが魅力でもある。香取慎吾の両津勘吉に「キショかったわアレ…」って言っちゃうやつとか。外部の雰囲気をあんまり把握してない天然から来るものだと踏まえてても面白い)

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あくまで、模倣する対象やゲームルールが存在していて、その中での新機軸という感じがけっこう常に充満していると思います。そして、それが凄く上手いのだと思う。言うなれば、それは"演じきり"の「才能」なのだと感じています。

(それは、せいやさんもそうで、せいやさんの場合は圧倒的な芸能史データーベースを保持しそれを"モノマネ"という形で瞬間瞬間の出し入れを行う事が出来る才能。これも演じきりのパッケージングとして現代的な情報処理能力だと思う)

大喜利の回答としての型のモノマネが異常に上手い

のが粗品さんの基本的な「才能」なのだと思う。

で、それは世代的な認識の差異も複雑にはらみながら評価されているのだと感じます。

「2Pカラー」とか「スリの銀次」とか、そこら辺のワードって例えばM-1審査員席に座ってる年代の人にはちゃんと伝わないと思うけど、観客のウケ方とかによって新規性を漠然と覚えるのだろうし、逆に霜降り明星より下の世代はワードへの理解が出来るからこそ、それをネタに組み込んでいる事自体(くりぃむしちゅー的な例えツッコミの存り方)が、イノベーション的なものだと不特定多数に感じさせれる状態になっている、のではないかと思うことが多々あります。

ワードの新しさが型の上手さと合致していると感じます。

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なぜそう感じるのかと説明してみると、

粗品さんのネタやボケ方に、
ある種の「テンプレ」性を覚えてしまうからです。「型」とも呼べる。

非常に言語解説が難しいのですが、
粗品さん、もとい霜降り明星のお笑い芸人としての革新性はデータベース前提でのサンプリング大喜利的な漫才の文脈上でのシステム構築を成しているタイプだと感じていて、端的に言えばその「新しさ」の種類が「型版」の更新に比重の高さを覚えるのです。

くりぃむしちゅーの例えツッコミや、
東京ホテイソンの溜めツッコミ漫才的なものの、上方漫才側の到達点なんだと思う。

なので、大喜利の答えの「新しさ」と言いますか。

なんか
"「この範囲までも」「この概念までも」お笑いとして解釈しちゃうんだ"的なイノベーションではないんじゃないかと感じます。

ダウンタウンの漫才「クイズ」での
「さて、なんでしょう?」みたいな曖昧領域をそのまま提示する面白さとかではないし、

ツービートが「毒舌漫才」と称されたような、犯罪者とかまでも含めたあらゆる対象をネタ化させるアプローチ自体の面白さでもないし、

オードリーの「ズレ漫才」というツッコミの破綻をボケとしそこを機転に掛け合ってゆきそれによって際立った歪な存在「春日」を幻想として作るコンセプチュアルな面白さとかでもない。

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霜降り明星粗品さんが良くも悪くも語られる時に、「才能」という言葉が用いられがちだと思いますが

その「才能」がどういった類いのものなのか
あまり把握されていない気がします。

それは視聴者側も芸人側も。

漠然と「才能」がある、と認識されていて、それによって発言や振る舞いが許されているところがあるんだ、もしくはその「才能」によって若くして売れたから天狗的な環境と葛藤が生じているんだ、というような状態に思われがちなんじゃないかなと感じます。

個人的には、それが微妙に違うんじゃないかなと感じています。

ざっくりと言えば
粗品さんの「才能」は、そういう発言や振る舞いを行う事が芸人的なキャラ演技の中に含まれている代物なのだと思う。

「才能キャラ」なんだと思う。

言ってしまえば、幼児性愛的なもの自体が個人感情の中でのエロスであるのは当然として、

だけども、
「それを嫌悪、拒絶、非難すること」も
等しく個人感情の中でのエロスが起因しているのだと感じています。

(それらの善し悪しは別。それらを包括している文化や関係者の思想なども別。というか、今は置いておく。それよりもっと土台の話。)

母性、父性、親族的な価値観それ自体もエロスである、という集団的認識が抜け落ちがちではないかなと思います。

イメージとしてクリーンで脱臭された家族という組織の血縁という繋がり方には生殖が必要不可欠です。それは正しさというよりも、もっと直接的な本能によって支えられている動物の生臭さ。

なので、そういった子孫愛的なものの方が、反応の起因となった時にそれが暴走した場合、自覚し防ぎにくいような気もします。潜在的過ぎるから。

あと、これはより漠然とした個人感覚なのですが、そういった集団的子孫愛(という名の排他的なエロス)によって、性行為の目的化、娯楽化やフェティッシュの典型パターン、などが生まれているようにも感じています。抑圧によって発露が限定化されてるような気もしています。

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なので、法律や倫理の範囲の中でのエロスはその時代の賛否と共に規定されて社会としての全体的な調和がなされてゆくべきだと個人的な考えとしては理解しているのですが、

その"エロス"そのものが、個人感情によって左右され過ぎてしまうので、それのみで押し進めてゆくのは不安を覚えてしまうのが正直なところです。
(この感覚によって、何かの被害的なものを助長したいわけではありません。むしろ抜本的な構造から考えないと、民意だけではどうにもならない現象があるのではないか、という視座)

で、天の邪鬼的な見方のひとつに過ぎない感覚ですが、「キモイ」という感情自体が、"排他性"を持っていて、なおかつその排他という本能そのものが、もちろん防衛の側面もありながらも、遺伝子保持的な取捨選択を無意識で行っている、という部分があるのだとなんとなく感じています。

逆説的に言えば、
「キモくないもの」の規定も曖昧でありながら(当事者意識としては明確なのだと思います。というか後天的にそれは構築できる代物)それが正解的な空気感が形成出来てしまえる。

そして、それらの一連の流れ自体が、かなり

"生殖活動"的な

情報共有流動性だと感じています。

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すごく言い表し方が難しいのだけど、

"「キモイ」と感じる事"そのものも

"性"が起因になっているのだと思います。

M-1=レッドカーペット
THE SECOND=あらびき団
KOC=山1グランプリ
THE W=下ネタグランプリ
R-1=オールザッツ漫才

視力 さんがブースト
視力 さんがブースト

メンバーシップ始めました。
視力のアーカイブマップとして運営していこうと思います。
もしよかったらご支援いただけるとありがたいです。
よろしくお願いいたします。
note.com/shi_ryoku/membership?

ちょっと細かすぎる見方かもしれませんが、太田さんのフリートークや漫才でのボケ方と、くりぃむしちゅー有田さんやサンドウィッチマン富澤さんのボケ方を比較すると、その球種の違いが感じられるかもしれません。端的に言えば、有田さんや富澤さんは漫才の時はフリートークより「ボケを演じている感」が強まります。太田さんは「はしゃいでる」という普段のキャラクターの延長線上にそのボケが存在している感触。

で、これは吉田さんのネガティブボケ、ガラの悪い態度、歪んだものの見方、的なキャラクター性を漫才でもフリートークでも、あまり変わらずに持ち込んでいるという点と、とても近いと思います。

こういうネタとフリートークのキャラが、リアリティを保ったままあまり変わらない漫才師は他にも、おぎやはぎ、ハライチ、南海キャンディーズ、メイプル超合金、カンニングとかがそれにあたると思います。(ブラマヨが特筆すべきは、なおかつその上で掛け合い的に盛り上がってゆくところ。そこら辺がハマカーンや囲碁将棋の系譜)

それらのメンバーを見ていくと、やはり売れたあとにバラエティ的な場所だけでなく、若干コメンテーター的な領域にも足が掛かってゆく印象があります。素とキャラが現実感をもって混ざってゆくため、そういう需要が生まれやすいのだと思います。

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たしか、M-1グランプリの決勝で披露していた漫才も、そういうフリートークの延長を漫才に落とし込むような作り方をしていたと何かで語っていたと思います。

それは東京03やかもめんたるが日常で人物や状況に感じた違和を、設定としてコントに落とし込む手法の漫才版、といった感じだと思います。これは関西圏で吉本興業のような場所に属している漫才師としてかなり珍しいタイプだと思います。なんなら、ミキやさや香などの漫才師然としている吉本所属の漫才師に、ブラマヨ型として模倣される程に、ジャンルとしての開拓をブラマヨは行っていたとも捉えられます。

僕はこれを「漫才へのコントの逆流入」
と呼んでいます。

そして、この流れを反対に、コント師から漫才へ持っていってるタイプももちろん居ます。

その代表的な存在が、爆笑問題だと思います。

太田さんボケ方、田中さんのツッコミ方は、コント師のキャラ設定の延長線上にそのまま落とし込まれていて、それが極めてリアリティを
持ったまま漫才という形体に納まっています。
太田さんのボケはファンタジー性が強いとも捉えられますが、同時に「そういう冗談を言う人」という演技性としては、地に足が着いてもいると思います。
ザキヤマさんは向上委員会でああいうふざけ方をしません。

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「漫才師を演じる事」が商品になっている割合が低いと言いますか、例えばそれは関西圏で言えば、テンダラーであったり、ギャロップであったり、関東圏でもアンタッチャブルなんかがそれにあたると思います。

ボケツッコミの明確な分担と、
そのボケがボケとしてファンタジーも含んで放たれていること、がいわゆる漫才師然とした部分を提供品として出している。

それらと比較した場合、やはりブラックマヨネーズというコンビは「漫才師を演じている感」は薄くて、フリートークの時の二人とかなり隣接しています。

ただ、同時にそれは完全な素というわけでもなく、

いわゆるマシンガンズみたいな降り方、裏笑い的な手法でもありません。ブラマヨはもう少し演じています。

かといって、アルコ&ピースみたいなコント師が漫才をメタ的に演じている、という構造の面白さでもありません。そこまでは白々しくない。

たぶん、一番近いのはバナナマンのラジオコントでケンカのノリをしているやつとかが、ブラマヨの漫才のピークの持ってき方とかと似てると思います。ああいう、ずっと常にうっすら演じてて流れで前やったくだりが発動しそれが爆発する、みたいな即興芸術。それを漫才でやってるのだと思います。

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