関西圏をフィールドに加えた途端に、その派遣の牛耳りは色濃くなっていると感じます。漫才師としての存在感もかなり強いと思う。
その上で、吉田さんのネガティブ芸みたいなものが、そのまま世相斬りみたいな地点に若干届いて、そこでお笑いファン的な視座での天下とは様子が異なると認識の波及がされたのではないでしょうか。
それはバイキングという番組が、途中からワイドショー的な文脈が強くなっていった事によって拍車をかけた部分はあると思うけど、元々がそういう素養というか、そういう性質をはらんでいる芸風だとも感じます。食物連鎖のツイートとか。
もっと根幹的な部分で、漫才師としてのブラマヨの面白さからそれを読み解こうとしてみてもいいのかもしれません。
あくまで個人的な捉え方ですが、
ブラックマヨネーズという漫才師の存りかたは、むしろ関東コント師の系譜をくんでいるタイプの掛け合いをしていると感じています。
「極めてリアリティのあるキャラ設定」と
「ボケツッコミの役割がそこまで固定化されてないまま描かれる脚本」という2点が、それを物語っていると思います。
ハマカーンとか、囲碁将棋とか、
あとほんとにたまに漫才を行う時のアンガールズとか、
そういったフォーメーションとブラマヨは近いです。
ビートたけしさんがお笑い芸人という出自と思想を色濃く残したまま、映画というジャンルに流入し、そのまま「世界の北野」と称され評され文化人的な地位を確立させていった形跡と比較すると、
松本人志さん的な天下が相対的にどうあろうとしているかが、なんとなく感じられます。
おそらく、松本さんはそれを踏まえた上でイメージコントロールに出力してきたであろうし、それが結果として"審査員"というブランディングになっていったのは本人がどれぐらいの段階から意図していたのかわかりかねますが、またこれから先どうなるかも予想できかねますが、現状そういう形でそれが天下だと言うのなら覇権を握っていると呼べるのだと感じます。
個人的な考えですが、
芸人さんの数だけ天下があるのではないでしょうか
僕は、これだけお笑い界内部で話題になってて、なおかつその外側にも基盤と地位を確立させているオリエンタルラジオ中田敦彦という芸人さんは、「もうすでに天下を取っている」と感じています。
「松本人志天下論」は、あくまで
こと"お笑い業界"の中でのみ強靭な磁場を発生させながら、その業界ごと拡張し、賞レース文化のホールドとトレースを繰り返すことによって、規模と格式を底上げさせてきたわけですが、やはりそれは"お笑い業界"の中でのみ成立している「天下」なのだと感じています。
もちろん
ドキュメンタルというフォーマットが海外バラエティにまで波及している事や、
フリップ大喜利としうゲームシステムの確立と普及など、
その功績はある種の他ジャンルへの影響も確認できるわけですが、
ただ、それらもやはり
「お笑いという概念の内部」でのみの触媒であると感じます。
中田敦彦さんが言うような「面白さの定義の固定化」は、たしかにそれらの利権と、空気としての誘導が、かなり強固に連動して形作られていると感じるので、ある意味では間違っていないとも感じます。(中田さんへのいじりという名の数による過剰なバッシング行為が、むしろその固定化されている現状の証明に繋がってはいる)
でも、それは繰り返すようですが、
「お笑い業界の中でのみ成立している天下」
である要素がとても強いと思います。
「お笑い」というジャンルの地位向上の先に、テレビメディアと吉本興業という芸能事務所の形態がマッチして巨大資本の中で、神格化させながら産業として運営しているのだと感じますが、
例えば、上記したさまぁ~ずは
たしか2016年辺りに黒柳徹子さんとお笑いネタ番組の司会を一緒につとめてたと思います。
あと、ピース又吉さんの
芥川賞受賞というトピックとかも目を向けないわけにはいけません。
若林さんの立ち位置は、松本人志的なお笑い大規模コミニティと絶妙な絡み方をしていると思いますが、あちこちオードリーの配信ライブの盛り上がり方、「だが情熱はある」というたりないふたりのドラマ化などを考えると、これもまた「天下」を取ってないとは言い難いと思います。
なんと言いますか、
「『お笑い』の外側」にいかに連結しているのか?
という点で見ると、このそもそもの「天下」という概念自体が、けっこう簡単に覆ってしまうものだと感じます。
「天下」って"状態"が先んじているわけではなく、それぞれの「個人」の認識の中で、まず引き起こっているのだと思います。(なので、結果としてその認識の数が多いとその中で「天下を取っている」という共有世界観を形成しやすいというロジック。つまり洗脳的。)
個人的にはオリラジあっちゃんの提言は面白いと思いつつ、騒動そのものに参加している人々自体の年齢層の高さに構造的問題点があると感じてて、
正直「松本人志天下」そのものがもう終焉しているのだとも感じています。
たぶん2000年代中盤から実はさまぁ~ずの水面下での天下が実はあって、そこから今オードリー若林さんの天下に2015年辺りから切り替わっていると思っています。
たぶん松本さんの天下は、年代的に人口のボリュームゾーンである事とか、ネット登場黎明期のタイミングだった事とかが緩やかに関係していて、「年齢」や「お笑い好きかどうか」で、ずっと天下が続いているように感じる人が多いからという理由があると思う。なんていうか、言葉選ばずに言うと『新興宗教的』なんだと思う。
その外側に居ると、とっくにその磁場は弱まっているのがわかる。松本人志より上の年代の人と話したりすると「ビートたけしの天下」がまだ続いてる認識だったりします。
ブラマヨが「天下取り」の文脈で語られてた瞬間があって、今は「なぜ天下を取れなかったのか?」みたいな批評に着地してるのだと思うけど、
当の本人達があまりそれに対して根本的な自覚を持っていない気がする。
というか、端から見ても
そもそも「そういうタイプの天下」を取る芸人ではないように感じます。
ブラマヨは、もうすでに爆笑問題的な天下を取っていると思う。
こちらで記事を書かせていただきました。松本人志監督映画について感じている事について。ぜひお読みいただきたいです。よろしくお願いいたします😊
【視力のお笑いシネマレンズ】第1回 松本人志監督作品の面白さ
https://movietoybox.com/archives/2023/05/31/2047/
"空気誘導芸"がふたつの側面を持つのなら、
「下の世代への吊し上げ」
「上の世代への噛み付き」
だと思います。
ビートたけしさんは今も映画を撮り続けています。
「首」という映画のプロモーションで
バイオレンス描写や性や生、死的なものへの表現を語っていました。
僕は、R100を見て
松本人志はそこら辺への、もっと現代的なグロい表現を大衆の共感含めて表現出来るんじゃないかなと、いち視聴者として勝手に期待してしまいます。
ビートたけしの直接的、組的な暴力性
とはまた違う
松本人志の間接的、学校的な暴力性
「いじめ」の面白さ
を描けるんじゃないかな、
とずっと感じています。
さや侍で野見さんに行使していた暴力
しんぼるで自意識と外界で捉えてた暴力
大日本人で最後獣が受けてたみすぼらしい暴力
そういうものを"空気誘導芸"で作品として昇華する事が出来るんじゃないのかな
と、今回のTHE SECONDでの完璧な振る舞いを見てて感じました。
キングオブコントの第一回目で上手くいかなくて大量の汗をかいていた松っちゃんを思い出しながら。
話が横道に膨らみ過ぎて完全にTHE SECONDの話ではなくなってしまいましたが、
ただ、そういった松本人志の"空気誘導芸"を中核に置いている賞レース文化全体の枝葉の先のひとつであり、邪推ではありますが、
今松本さんがワイドナショーから離れ、ガキ使大晦日をやらなくなり、探偵!ナイトスクープの局長として関西圏での磁場を強め、ドキュメンタルをAmazonプライムという場所で行っている、という大衆地点の勘所を探るなおしてる時期だと捉えられるようなある種の雲隠れムーヴの中で、
このTHE SECONDが開かれている
という事に、
神格化のアップデートを感じてしまう自分がいます。
テレビ前提世代じゃない層への震度を上げるために同世代的な磁力を一度高める運動をしようとしてるようにも見える。
そして、それはすなわち
松本人志は下の世代へのコントロール意識が強いのだとも感じます。
僕は松本さんに映画にもう一度挑戦してほしいです。
松本人志のTHE SECONDを見たいです。
このワイドナショーのコメント芸でも、たしかに自分がオリラジ中田さん当事者だったらどう感じるかを想像してみると興味深いです。(あとこの動画が音声のみだから周囲の芸能人達の反応のグラデーションの機微もうっすら感じ取れる)
ナイナイへの27時間テレビでの接し方や雑誌での腐し方、爆笑問題への楽屋で詰めたとされる噂、そこら辺の話が事件性を持って語られているという事実が、内容そのものより"空気感"を痛烈に残して漂ってる。今、時代的な流れとしてコンプライアンスの強まり、ハラスメントへの逆風、を感じ取ったからかこの頃のこれらの話は明確に言及される事なく"雪解け"したとされている変容それ自体が、現在進行形での病的なまでの"空気誘導"を覚えてしまい、ゾクゾクします。
と同時に別視点、もう少し俯瞰で賞レースの外側、松本人志という芸人に絞ってさらに全体像として見てみると、
ちょっと前にオリエンタルラジオの中田敦彦さんが街録チャンネルで、そこら辺の事を言及しているシーンがありました。
この動画だけだと、中田さん視点のみからしか語られていないし、中核的な部分へのちゃんとした発言は避けてはいるし、この動画そのもののコンテンツとしての構造や立場とかも踏まえると、一概にどうとは言えない代物だとは思うのですが、
この人が松本人志をどう語るかという事には、何らかの見越せる空気感はあるのだと感じます。
というか、たぶん世代的に少し遡るとやはり出てくるのは、ナイナイや爆笑問題へ行使したであろう"空気誘導芸"の有無。
それが芸人さんたちの内側の空気感からうっすら漏れ伝わってくる感じがゾクゾクして面白いです。
あそこで松本人志が笑いを取りながらも、そういう釘指し言及をしてみせて、その瞬間に東野幸治が「ウケればええもんやない!」とプロレス的に反復していたところに、チームプレーと階級統制意識みたいなものを覚えてゾクゾクするような面白さを感じました。
ここまでで一応言っておくと、個人的にこういう松本人志の "空気誘導芸" は、めちゃくちゃ面白いと思っています。恐ろしさと同時にその行為自体の異様性に目が離せなくなる。
学校や職場にこういう事をする人がいたら、
怖いなぁ…嫌だなぁ…と思いますが
お笑いとして披露されて、ここまでの世界観と支持基盤を作れる事そのものに狂喜を感じてめちゃくちゃ面白いです。
賞レースそのものの立脚と産業としての運営を、
この"空気誘導芸"だけで成立させている
と言っても過言じゃありません。
そういうド変態デスゲームの主犯者みたいに見えて面白いです。
こう言うと悪く聞こえてしまうかもしれませんが、もちろん良き支配者として必須能力でもあると思ってて
マシンガンズの点数が思ったより低くて、ギャロップが開票前に「嬉しいです」とボケた時とかの、松本さんの笑いを交えた制し方とか、普通に大会として成立させるために必要な言及だったと思うし、ああいう事が出来るのも松本さんならではだと感じます。