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すごく言い表し方が難しいのだけど、

"「キモイ」と感じる事"そのものも

"性"が起因になっているのだと思います。

なので、法律や倫理の範囲の中でのエロスはその時代の賛否と共に規定されて社会としての全体的な調和がなされてゆくべきだと個人的な考えとしては理解しているのですが、

その"エロス"そのものが、個人感情によって左右され過ぎてしまうので、それのみで押し進めてゆくのは不安を覚えてしまうのが正直なところです。
(この感覚によって、何かの被害的なものを助長したいわけではありません。むしろ抜本的な構造から考えないと、民意だけではどうにもならない現象があるのではないか、という視座)

で、天の邪鬼的な見方のひとつに過ぎない感覚ですが、「キモイ」という感情自体が、"排他性"を持っていて、なおかつその排他という本能そのものが、もちろん防衛の側面もありながらも、遺伝子保持的な取捨選択を無意識で行っている、という部分があるのだとなんとなく感じています。

逆説的に言えば、
「キモくないもの」の規定も曖昧でありながら(当事者意識としては明確なのだと思います。というか後天的にそれは構築できる代物)それが正解的な空気感が形成出来てしまえる。

そして、それらの一連の流れ自体が、かなり

"生殖活動"的な

情報共有流動性だと感じています。

言ってしまえば、幼児性愛的なもの自体が個人感情の中でのエロスであるのは当然として、

だけども、
「それを嫌悪、拒絶、非難すること」も
等しく個人感情の中でのエロスが起因しているのだと感じています。

(それらの善し悪しは別。それらを包括している文化や関係者の思想なども別。というか、今は置いておく。それよりもっと土台の話。)

母性、父性、親族的な価値観それ自体もエロスである、という集団的認識が抜け落ちがちではないかなと思います。

イメージとしてクリーンで脱臭された家族という組織の血縁という繋がり方には生殖が必要不可欠です。それは正しさというよりも、もっと直接的な本能によって支えられている動物の生臭さ。

なので、そういった子孫愛的なものの方が、反応の起因となった時にそれが暴走した場合、自覚し防ぎにくいような気もします。潜在的過ぎるから。

あと、これはより漠然とした個人感覚なのですが、そういった集団的子孫愛(という名の排他的なエロス)によって、性行為の目的化、娯楽化やフェティッシュの典型パターン、などが生まれているようにも感じています。抑圧によって発露が限定化されてるような気もしています。

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