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なのでこれはもしかしたら本当の意味で、
ジャンダーギャップ指数弄り的な領域に立ち入ってるとも感じます。
(本人たち的にはもっと無邪気だろうし、そんなイメージが付き過ぎても困るのだと思いますが)

なんか、
動画のコメント欄とか呼んでいると

「もっと昔みたいに下ネタ路線薄めてくれ」
「タブーに挑んでてカッコいい」

的な評価もチラホラ見るのですが、それも含めてその要素もあった上で、でもあまりに馬鹿馬鹿しくて面白いです。

かき乱しと、
無邪気さを、不思議なバランスで両立させてる

マーキングかつマーケティング的

「お母さんヒス構文」や
「ギャンブル狂いの夫」に対して恋愛、親子問題に対する社会批評的な文章を書いていた評論家の方々にこそ、
「立ちション」「立ちションその後」を見て、ぜひとも感想を書いてほしいです。

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そして、だからこそ
そういった大学お笑いから社会人芸人を経てフリーでM-1予選で活躍したのちに事務所設立、という達者感、トリックスター感、そして毒親お笑い、発達お笑い、を内包しているようなかき乱しを演出しつつも、

「ち○こ萎えさせ王」
「うんちVSうんこ」
「Tinder大学」

とかやってる時の面白さがめちゃくちゃ際立ってるし、こっちが本芸だと思う。

なんか、これってもっと単純に捉えてみると、こういう面白さって勝手な印象論なのですが、すごく"女子校の笑い"って感じなんだと思います。

性別という要素が本質性を生んでいるわけではないのだけど、ラランドのこういう笑いを見た時に個人的には感じるのは、

おぱんちゅうさぎの可哀想にさんの初期の動画

とか

フワちゃんの初期のYouTubeのポテト拾って食うやつとかおしっこ我慢勝負してるやつ

とか

なんかそういう内省に迫ってくるような発露の状態化、世界観化、みたいなヤバさを感じて面白い。

差別的な事を言えば、男ウケのマジで真逆のやつ。男性の言う「女子の下ネタの方がグロい」的なあるあるのもうひとつ向こう側。

性別を取っ払った時に、生殖器をただの内臓として扱う(でも性欲を無視してるわけではない、エロスを面白がってる)みたいな笑い。

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なんかサーヤさんの面白さって、これを今自分の立場で提示してみる事でかき乱しを生んで、それがそのまま芸人としてのトリックスター性に繋がっている、という見方がスタンダードだとも感じるのですが、

でももっと、ただ単純に
「本当にどうしようもないただの下ネタ」を
結果として無邪気に行っているところに、
本質的な魅力があるんだと思います。

逆説的にその舌触りを覚えるのは、
さまぁ~ずチャンネルに出演した時に、いつものようにニシダさんのクズ弄りを行っていたら、大竹さんと三村さんが「いやまぁ、でもおれらも借金してたし、遅刻してたし…」と擁護と言うより自己反省的な意識で受け身を取り初めて、サーヤさんが「…ぇ?」って一瞬取り乱していたこととか、

東野幸治さんが自身のYouTubeチャンネルで「お笑い界のジャンルダヌク」という弄りをした時に反応が芳しくなく、そこから"タトゥー彼氏にビビる東野"という構図にした時にサーヤさんが多少イキイキしてきた流れとか、

そういった瞬間を見た時に
「世代差、性別差、子役だったというスペックなどによって勝手に達者キャラの椅子に座らされている」
という状況が生じている気がしてしまうのです。

で、その中でも特に感じる
"元子役的な空気の読み方"で自意識もろとも擬態しちゃってる気がする。

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そういう意味では、太田光という芸人さんは、中田敦彦の松本人志への提言の話題の時に

「あっちゃんは"権威"に憧れがあるんじゃない?そんなものはお笑いに邪魔」(と言いながら微妙に松本人志の立場への批評にもなっている)

と言っていましたが、これは皮肉ではなく太田さんもある種の"権威憧れ"が見えかくれしているとは感じます。

"反権威"憧れ

とでも呼べるような逆説的価値高騰ポジション。

それは当然「道化」という立場なわけですが、太田さんの特異性はそれを"語り"によって構造解体をし、そのドサクサ紛れで自身をその特別地点に置いてしまう、という芸を獲得しているところ(田中さんという"疑似権威"を担保に)

そこに

「語れるけど、いざ取り掛かるとその構造解体芸を越えない」

という自己矛盾を抱えたまま、だけどもそれも自虐や批評を含んだまま"語ってしまう"事でお笑いとして成立される、というメタ演技によって聖域を維持してきたのだと感じます。

煙に巻くのが上手すぎるし、
ある意味での天然性を愛嬌として飼い慣らしている

チャップリンが街の灯での盲目の少女の残酷さや、独裁者でのヒトラーの滑稽さと愛着を描いてしまっていたように、

太田光の表現は、"芸人憧れ"という部分が一番魅力を放ってる。

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あと、これは陰キャ陽キャ論争をさらに俯瞰で眺めてみて、なおかつセンシティブではあるので言い表し方がかなり難しくその上であえて簡単に言ってみようかなと思うのですが、

このコントを見ると、
南海キャンディーズ山里さんが昔称賛していていた「やれたかも委員会」を思い出しました。

youtu.be/Zrq-X5jLFx8

こういう球種だけではないのだけど、こういう構造に設計してみてコントの関係図式的に一人を追い込む流れを作って発露を促す(そのために人数をこの配置にしてみている。蓮見さんはそれでいてツッコミの立ち位置)
これは山里亮太さんがコントを書けたとしたら、こういう芸風になったであろう表れだと感じます。

そこから覚える舌触りは、つまり描こうと思えば「弱者男性」「女性のモノ化」を面白さに持ち込める。ただ、それになり過ぎない意識はしてるんだと思う。

めちゃくちゃ感想として難しいから気を付けたいのですが、そういう意味ではダウ90000というコントグループは「エロス」に対して、実はかなり直接的な表現意識に取り組んでいる集団だと思う。

「陰キャのおれには眩しくて刺さる」
「今しか見れない若い男女のキラキラ最高」

とかも搾取的だし本人達はある程度意識して避けたり振る舞ったりしてるんだと思う。役者集団。

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ラランドYouTube「HISTORYFAMILY」「お母さんヒス構文」あとサーヤさんの紙ストローツイートとかが話題だしもちろん面白いのですが、

「立ちション」というコントが一番ヤバ面白いし、このコントが話題にもっとなる世の中になってほしい

それは映画で、という事なのかもしれません。

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なので、無責任な感想を垂れ流すと、

もっと"作品性"に
特化していってもいいんじゃないかなと思います。

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バナナマンおぎやはぎの「epoch TV square」
劇団ひとりバカリズム東京03「ウレロ☆未確認少女」シリーズ

とかと

ワンシチュエーションコメディという形式上比較して見てしまう部分もあります。

脚本構成がある程度しっかりしてて、その上で少量のアドリブを見せたりしてゆくような水準を無意識に求めてしまうのかもしれません。

もしくは、そもそもそういう事ではなくて

「ヨルタモリ」的な領域を意図しているとも感じます。

だとするのならば、やはり個別でコントとトークをある程度分けて放流してほしい気持ちになったりもします。(光代社長がちょっとそうなってる)

YouTube的なアルゴリズムによって芋づる式に視聴してゆくプラットホームでのコンテンツ形式にあんまりなってない感触。
週一での深夜テレビ放送でサムネイルやうっすらとした話題の方向性だけYouTubeっぽくなってる、というような状態なのかな。

田中さんの安定感はコント芸人のそれとして健在してると思う。

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その上で、
テレビの話というYouTubeは「ワンシチュエーションコメディ」という形式を取っていて、これはどちらかと言えばテレビタレントの方の爆笑問題でのイメージを前提に番組を組み立てているのだと思います。

ただ、それが"コントである必要性"を上記したような視聴者、ゲスト若手芸人が慣れも含めてあまり感じ取れていない気がします。

端的に言えば、
テレビタレントのイメージを持ち込むのなら、トークチャンネルでいいじゃん と思われている感じがする。

端から見ると、
"よくわからない拘り"に感じられているのかもしれません。

ただ、爆笑問題のコント好きからすると、
むしろ"そういう芸人"だという認識だし、なんならコントに拘っているけど内容はまだまだ全然トークに寄せちゃってる、と思う。

ただのいちファンが勝手な事を書くのなら、
「矢作とアイクの英会話」とか
「永野コントチャンネル」とか
「九月劇場」とかみたいな

コントはコント動画として上げて、
トーク的なパートは別で設ける
という棲み分けて見たい気もします。

コントとトークの境界領域が曖昧になってる。
スケジュール的にそうならざるを得ないのかもしれません。
もしくは、それが段々味になって良さになってくる感じもします。

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太田さんがよく口にしている
「映画を撮りたい」
「シャボン玉ホリデーのようやコント番組がやりたい」
という目標としての物語性があった上で、

ただ同時に今のファン層やテレビ視聴者、慕っている若手芸人、スタッフとかが、あまりその太田さんの願望を認識把握できていなそうな雰囲気も覚えます。

個人的には、
僕は爆笑問題のコントの方が好きだったりします。

特に初期の頃のネタの「進路相談」や「人工心臓」とかのブラックな感じが好きだし、タイタンライブの原型的な「七福神」でのユニットコントも好きで、あと「爆笑大問題」「爆笑問題のハッピータイム」とかもよく見ていました。

そして、30周年記念ライブ
「O2-T1(オーツーティーワン)」も面白かったです。

ですが、正直なところを言えば「O2-T1」に関しては客層と内容が合ってないんじゃないか、というか漫才師としての爆笑問題、テレビタレントとしての爆笑問題、とコント師としての爆笑問題、日芸出身の映画や演劇活動コンビとしての爆笑問題とが、かなりイメージとして分離している事の表面化を感じました。

ある種の過剰適応とも呼べる進化があったのかもしれません。特に太田さんが。

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爆笑問題のYouTube「テレビの話」
再生数的なものをテレビタレントとしての知名度とかと比較されてゲスト出演者にいじられがちな感じですが、

これって現時点で何とも言えないけれど、
爆笑問題太田さんのデビュー当時のキャラクターと今の漫才師としての人柄が変容している事とかがけっこう関与している気がしています。

元々はコント芸人なのだけど、
その地点に辿り着いた時にはコント芸人じゃなくなっていた、というような状態なのでは?

というか、おそらく

「ダサさ」みたいなものの参加人数に比例するような漠然とした概念の直接的な"共有"自体が、単純に難しいからその磁力が弱まっている(もくしくは用途が言語接続でしかなくなってくる)

って感じなんじゃないでしょうか。

コンテンツの中心的な面白さ(ダウ90000の場合はコント、ぐんぴぃさんの場合はYouTubeの企画性)と、

ブランディング含めたパブリックイメージ(若干操作が出来ない事によって波及してゆく事も踏まえた上での好感度や属性規定的なもの)が、

商品として分離している状態
という管理方法。

実際に
陰キャ陽キャかみたいな部分はどうでもよくて、

「それを話題に語られやすいか」が重要

さらにその語られやすさはタレント的な要素なだけでなく、単純に我々の日常での"コミュニケーション能力"とかに関わっている

むしろそれがスキル化してる気がしています。

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この話の対局に"バキ童"で注目されてる春とヒコーキぐんぴぃさんの陰キャ自認とコメント欄での「根は陽キャ」という評価。

陰と陽で人は区切れないけど、芸人さんだからイメージに対してのブランディングは発生しちゃっているとは感じます。属性規定(規定をしないという表明含めて)によって共同幻想的なキャラが促進される傾向というのは鶏と卵ではありますが。

陰陽というより、何が「ダサい」のかが変容してるんだと思う。

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ダウ90000蓮見さんのラジオでの「"陰キャ陽キャ論争"に対する回答」府に落ちる一方で、その外側で興味深いのは、「ダサい」というニュアンスは言葉として使いこなしていた事。

radiko.jp/share/?t=20230705262

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「明るい」「暗い」とかじゃなくて、
「陰」「陽」ってのがポイントな気がします。
単純に言葉の響き的なものも関係あるのだろうけど
(語源は『中学生日記』説があるそうです)

なんかRPGっぽい世界観が背景に見える。
「黒歴史」「邪気眼」とかそこら辺から引き継がれているような雰囲気を感じます。

論破的なエンタメとか、M-1グランプリみたいな競技漫才と呼ばれているようなお笑いとかも、観衆のその見方自体が"スポーツ"である前になんかRPGっぽい(格闘ゲームではない)

もっと言うと、ONE PIECE的な漫画っぽい。

「陰」とか「陽」って言い回しに"能力"感がある。

なんかなんとなく概念造形がぼんやり感じられてきました。
ある種の「単純化」機能が便利だから波及してる気がします。

話をダウ90000に戻してみると、彼彼女らがやってる事は既存のストーリー構築論を前提にハイコンテクストな事をしてるから

「キャラの2元論」で解釈したい需要が生まれやすいのかも。

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あと、なんとなく掴めてきたのは…

「陰キャ陽キャ」の話は
ヤンキーとオタク的な分け方じゃなくて
SかMかみたいな分け方

血液型性格診断とかも、「何に分類されるか」や「実際の性格」とか、もっと言えば「その話題で盛り上がるか」とかの重要度よりも、

「"自己中"という概念」
「"几帳面"という傾向」とかがコミュニケーションの中で集団的に意識されてる(という事実の浮き彫り)が意味価値として本質性が高いのだと思う。

陰や陽でキャラクター性を区切る事が社会の中で『必要』とされてる、という事実

なんかニュアンスとして
「距離感」を保ってる感、ある程度の傍観を強いられている(もしくは求めている)感じがある気がします。「キャラで区切る」という感覚は。

ヤンキーオタクは「ファッション要素」が伴ってるし、ネアカネクラは「内省」の話だし、SとMは「リード、イニシアチブ」的な近距離感。

もしくは、「情報集約性」
"キャラクター"という解釈が前提共有的。

単純にポケモンとかの影響なのかな

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なんか
「陰キャ陽キャ(という言葉)」も
「演劇的要素(に伴う集団的価値)」も
"コント(規定的コミュニケーションでのパターン実験)"のために存在している道具のひとつに過ぎない、というような感触があります。

例えば、オードリーの若林さんが「人見知り芸人」や「ラジオでの若林」等を場面によって使い分けたり自己言及する事によって相反性を生みつつ可動域を広げたりしてると思うのですが、ダウ90000的な領域はその振る舞い自体が目的化してるような感じ。演技の人達だから、というのはあるのだろうけども。

この感じは、
ニューヨーク嶋佐さんやラランドサーヤさんとかにも強く覚えます。
コンビの色合いとして「陽キャ芸」的な要素を孕んでいるからこそ、それをフックにした面白さを提示(するためにある程度"型"的な振る舞いを薄くディフルメ)している気がします。コント芸人の話術論。

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そして、ここから論理が飛躍してみるのですが…この「"キャラ属性の規定"を認識した上での内省表現ないし集団芸術」というコンテンツ自体が、めちゃくちゃ『演劇的コント』っぽい。我々の社会生活はいつのまにか定型をやや崩す(ことのパターン)の方に価値比重が発生しているのではないでしょうか?

なんか大勢で「陰キャだ陽キャだ」ってそれぞれが勝手に論じてるこの状況が、ダウ90000のコントっぽく感じてしまいます。

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"集団"を「キャ(人物属性)」で区切ろうとするのに無理があるのかも

この話って「ダウ90000がどうか?」とか「お笑いはマイノリティのものなのか?」とか、そういう事よりも、この「陰キャ陽キャ」的な概念がそもそも何なのか?という部分にやはり本質性があるんじゃないかなと感じます。
語りやすすぎる。ヤンキーオタク、ネアカネクラ、とかより群を抜いて。

なんかよく言われてた論調に

「陰"キャ"陽"キャ"だからキャラという表層的な属性規定なので、内省ではなくコミュニケーション規定についての概念(高まった社会性が自己規定を促している時代性の言葉)」

みたいな感じがあったと思うけど、今回のダウ90000論争は、もはやそこを飛び越えて前提になってる。

それぞれの視点でダウ90000という存在が陰キャにも陽キャにも見える、という俯瞰共有を踏まえた上で

「実際的な性格はどうなのか?」
「これをそう規定しうる人物やコミニティがそもそも◯◯キャ性が高い」

というような批評軸が参加人数分だけ発生してる状態。なんか説明書段階から個別カスタム的。

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