ダウ90000って名前が陰っぽい
はりねずみのパジャマは陽っぽい

"集団"を「キャ(人物属性)」で区切ろうとするのに無理があるのかも

この話って「ダウ90000がどうか?」とか「お笑いはマイノリティのものなのか?」とか、そういう事よりも、この「陰キャ陽キャ」的な概念がそもそも何なのか?という部分にやはり本質性があるんじゃないかなと感じます。
語りやすすぎる。ヤンキーオタク、ネアカネクラ、とかより群を抜いて。

なんかよく言われてた論調に

「陰"キャ"陽"キャ"だからキャラという表層的な属性規定なので、内省ではなくコミュニケーション規定についての概念(高まった社会性が自己規定を促している時代性の言葉)」

みたいな感じがあったと思うけど、今回のダウ90000論争は、もはやそこを飛び越えて前提になってる。

それぞれの視点でダウ90000という存在が陰キャにも陽キャにも見える、という俯瞰共有を踏まえた上で

「実際的な性格はどうなのか?」
「これをそう規定しうる人物やコミニティがそもそも◯◯キャ性が高い」

というような批評軸が参加人数分だけ発生してる状態。なんか説明書段階から個別カスタム的。

そして、ここから論理が飛躍してみるのですが…この「"キャラ属性の規定"を認識した上での内省表現ないし集団芸術」というコンテンツ自体が、めちゃくちゃ『演劇的コント』っぽい。我々の社会生活はいつのまにか定型をやや崩す(ことのパターン)の方に価値比重が発生しているのではないでしょうか?

なんか大勢で「陰キャだ陽キャだ」ってそれぞれが勝手に論じてるこの状況が、ダウ90000のコントっぽく感じてしまいます。

なんか
「陰キャ陽キャ(という言葉)」も
「演劇的要素(に伴う集団的価値)」も
"コント(規定的コミュニケーションでのパターン実験)"のために存在している道具のひとつに過ぎない、というような感触があります。

例えば、オードリーの若林さんが「人見知り芸人」や「ラジオでの若林」等を場面によって使い分けたり自己言及する事によって相反性を生みつつ可動域を広げたりしてると思うのですが、ダウ90000的な領域はその振る舞い自体が目的化してるような感じ。演技の人達だから、というのはあるのだろうけども。

この感じは、
ニューヨーク嶋佐さんやラランドサーヤさんとかにも強く覚えます。
コンビの色合いとして「陽キャ芸」的な要素を孕んでいるからこそ、それをフックにした面白さを提示(するためにある程度"型"的な振る舞いを薄くディフルメ)している気がします。コント芸人の話術論。

あと、なんとなく掴めてきたのは…

「陰キャ陽キャ」の話は
ヤンキーとオタク的な分け方じゃなくて
SかMかみたいな分け方

血液型性格診断とかも、「何に分類されるか」や「実際の性格」とか、もっと言えば「その話題で盛り上がるか」とかの重要度よりも、

「"自己中"という概念」
「"几帳面"という傾向」とかがコミュニケーションの中で集団的に意識されてる(という事実の浮き彫り)が意味価値として本質性が高いのだと思う。

陰や陽でキャラクター性を区切る事が社会の中で『必要』とされてる、という事実

なんかニュアンスとして
「距離感」を保ってる感、ある程度の傍観を強いられている(もしくは求めている)感じがある気がします。「キャラで区切る」という感覚は。

ヤンキーオタクは「ファッション要素」が伴ってるし、ネアカネクラは「内省」の話だし、SとMは「リード、イニシアチブ」的な近距離感。

もしくは、「情報集約性」
"キャラクター"という解釈が前提共有的。

単純にポケモンとかの影響なのかな

「明るい」「暗い」とかじゃなくて、
「陰」「陽」ってのがポイントな気がします。
単純に言葉の響き的なものも関係あるのだろうけど
(語源は『中学生日記』説があるそうです)

なんかRPGっぽい世界観が背景に見える。
「黒歴史」「邪気眼」とかそこら辺から引き継がれているような雰囲気を感じます。

論破的なエンタメとか、M-1グランプリみたいな競技漫才と呼ばれているようなお笑いとかも、観衆のその見方自体が"スポーツ"である前になんかRPGっぽい(格闘ゲームではない)

もっと言うと、ONE PIECE的な漫画っぽい。

「陰」とか「陽」って言い回しに"能力"感がある。

なんかなんとなく概念造形がぼんやり感じられてきました。
ある種の「単純化」機能が便利だから波及してる気がします。

話をダウ90000に戻してみると、彼彼女らがやってる事は既存のストーリー構築論を前提にハイコンテクストな事をしてるから

「キャラの2元論」で解釈したい需要が生まれやすいのかも。

ダウ90000蓮見さんのラジオでの「"陰キャ陽キャ論争"に対する回答」府に落ちる一方で、その外側で興味深いのは、「ダサい」というニュアンスは言葉として使いこなしていた事。

radiko.jp/share/?t=20230705262

この話の対局に"バキ童"で注目されてる春とヒコーキぐんぴぃさんの陰キャ自認とコメント欄での「根は陽キャ」という評価。

陰と陽で人は区切れないけど、芸人さんだからイメージに対してのブランディングは発生しちゃっているとは感じます。属性規定(規定をしないという表明含めて)によって共同幻想的なキャラが促進される傾向というのは鶏と卵ではありますが。

陰陽というより、何が「ダサい」のかが変容してるんだと思う。

というか、おそらく

「ダサさ」みたいなものの参加人数に比例するような漠然とした概念の直接的な"共有"自体が、単純に難しいからその磁力が弱まっている(もくしくは用途が言語接続でしかなくなってくる)

って感じなんじゃないでしょうか。

コンテンツの中心的な面白さ(ダウ90000の場合はコント、ぐんぴぃさんの場合はYouTubeの企画性)と、

ブランディング含めたパブリックイメージ(若干操作が出来ない事によって波及してゆく事も踏まえた上での好感度や属性規定的なもの)が、

商品として分離している状態
という管理方法。

実際に
陰キャ陽キャかみたいな部分はどうでもよくて、

「それを話題に語られやすいか」が重要

さらにその語られやすさはタレント的な要素なだけでなく、単純に我々の日常での"コミュニケーション能力"とかに関わっている

むしろそれがスキル化してる気がしています。

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あと、これは陰キャ陽キャ論争をさらに俯瞰で眺めてみて、なおかつセンシティブではあるので言い表し方がかなり難しくその上であえて簡単に言ってみようかなと思うのですが、

このコントを見ると、
南海キャンディーズ山里さんが昔称賛していていた「やれたかも委員会」を思い出しました。

youtu.be/Zrq-X5jLFx8

こういう球種だけではないのだけど、こういう構造に設計してみてコントの関係図式的に一人を追い込む流れを作って発露を促す(そのために人数をこの配置にしてみている。蓮見さんはそれでいてツッコミの立ち位置)
これは山里亮太さんがコントを書けたとしたら、こういう芸風になったであろう表れだと感じます。

そこから覚える舌触りは、つまり描こうと思えば「弱者男性」「女性のモノ化」を面白さに持ち込める。ただ、それになり過ぎない意識はしてるんだと思う。

めちゃくちゃ感想として難しいから気を付けたいのですが、そういう意味ではダウ90000というコントグループは「エロス」に対して、実はかなり直接的な表現意識に取り組んでいる集団だと思う。

「陰キャのおれには眩しくて刺さる」
「今しか見れない若い男女のキラキラ最高」

とかも搾取的だし本人達はある程度意識して避けたり振る舞ったりしてるんだと思う。役者集団。

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