ダウ90000って名前が陰っぽい
はりねずみのパジャマは陽っぽい
この回良かった
飯尾和樹の『ずん喫茶』<小川駅>のこだわりマスターのコーヒーでホッとひと息~
https://tver.jp/lp/episodes/epkr9ryb7q
と同時に、
こういうツッコミ芸をおもしろいなぁ…
って眺めてながらも個人的に感じるのは、
"信仰心"や"倫理観"みたいなものが
出来上がってゆく朧気な過程的なものを漠然と覚えます。
なんというか、上岡さんや松尾さんとかはいわば"信念"みたいなものがどうしようもなくあって、それがバラエティ番組の中でも曲げる事が出来ない(ことをギリギリでショーにしてるんだと思う)別に本当のところでは正義感とかでやってるようなものでもないのだろうし、ツッコミをしてたらそうなっていってしまった…というある種の過剰さが人間味として商品になってるんじゃないかと。
ただ、それを見ていた人達に情報が波及してゆく過程で、そのコミュニケーション形式だけが時間経過と共に受け継がれてゆく
そうすると、なぜそれを批判していたのか?という部分が抜け落ちて「オカルト叩き」という快楽性だけが残ってしまう
有吉さんの世代がそれを受け継いでいるのだとしたら、そのパフォーマンスのマニュアル性だと感じます。
それはそれとして虚実のセーフティネット的な機能をあるのかもしれませんが、同時に「叩く」という行為の波及にもなってしまっているとも思う。(有吉さんはそこは敏感だと思いますが…あと島田秀平さんの受け身が綺麗すぎる)
上岡さんの霊能者やUFO肯定派への批判は、オカルトブームの頃に対立の構図でショーを行っている中で、ややリアルファイトをしていた(事に本人の自覚があった…けど過剰になっちゃう)タイプ
同属性に松尾貴史さんとか、あと最近だとアンガールズの山根さんがラジオで島田秀平さんに対して理詰めしていってほとんど笑いが起きなかったやつ…とかと似た代物
端的に言えば「自分の大人げなさ」を面白さにしている部分が比重として大きいと思います。
対して、有吉さんはもっとプロレス的かつキャンセルカルチャー前提の見世物的。オカルトじゃなくて、その延長線上のスピリチュアル的な領域を携えている"人物批判(いじり)"なので、もっと内省に迫っている。というか、逆を言えば「占いなんてファンタジーに決まってるじゃんw」という共有を観客視聴者と踏まえた上での論破コント。「占い師以外の全員の大人げなさ」を背負って、その代表者として面白いトークをしている。過激なファンや陰謀論いじりとかも。
これは、伊集院光さんが心霊番組を「蜂の入った箱」に例えていた話や、東野幸治さんが「オーラの泉」に終始ニヤニヤしながら半分乗っかってゲスト出演していたやつとかと同じラインの批評芸だと思う。
上岡龍太郎のオカルト叩きを
有吉弘行のスピリチュアル叩きは
遺伝子として受け継いでいる、という論調があるけど、ちょっと違うと思う 。
なんかたぶん一番弄られているような
「「天才はあきらめた」とか言いながら、
本当は誰よりも「天才ポジション」を目指しているんでしょw」
みたいな観点も本当は違うと感じてて
なんか山里さんはもっと、
『快楽主義』的な気質なんだと思います。
上昇志向があるようで、ない。
それがへり下り芸によって、「本当は誰よりも上昇志向があるのに、それを隠して影で努力している」という部分がイメージとして膨れ上がり過ぎてる気がします。
(それをタレントとして利用してるけど。というか、やってるうちに本当に"自分は嫉妬心があるんだ…"と錯覚していってるように見える)
なんか、春日さんが学生時代に若林さんに襟足を切られ続けて「何をされても動じない男"春日"」になってしまったように、
山里さんも芸人になった事で「過剰に自尊心を削られて、それをアイデンティティにして嫉妬心を無理矢理募らせている男"山里"」に変質していっているようにも思える。
山里さんはもっと単純に
ツッコミワードを場面に上手くはめてウケを取るゲーム
に享楽しているだけだと思います。
自己実現とか芸能界の権威とか、そういったものに本質的には興味がないんだと思う。
わかりにくい変態。
だから、ラサール石井にツッコミを誉められた事だけ異様に覚えてる。
なんと言うか非常にニュアンス的だし憶測の域を出ない感想なので説明しずらいのですが、
「天才はあきらめた」と言ってる段階で、
「天才を目指していない」のがわかってしまう
という身も蓋もない事を思います。
いや、これは
否定しているわけでも揶揄や嘲笑冷笑的な視点でもなくて本当になんというか、
そういう構造のおもしろさ
なのだという事を一番覚えているのです。
例えば、
"「天才はあきらめた」と言いつつ、
「そんなことないよ山ちゃんは天才だよ」という言葉を貰えるように空気を誘導している"
とか
"「天才はあきらめた」とは言ってるけど、
それをこんなに自覚して努力できる山ちゃんは間違いなく天才だし、なによりあんなツッコミワードを瞬時引き出せるのは天才の証拠"
とか
"全部ひっくるめて天然、だから面白い"
とか
それらの角度の見方を全部こう吸収されてゆく感じがある。なんか山里さんのネタに参加させられているような気持ちになる。かといって、そこまで策士なのかと言われるとそうでもない気もします。
なんかたぶん山里さんは、
本質的には「天才」に興味がないのだと思う。
実は、
「勝手にひとりでなんかやってる人」なんだと思います。
山里さんにとって"天才"という概念すらワード的。自虐笑いの道具。
90年代頃の松本人志が中心メディアの中で自ら"天才"を自認しながらカリスマ化していった手法は、自己設定したハードルを飛び越えてゆくマゾヒズム的なアプローチの芸であると同時に、近い境遇の領域から洗脳のような空気作りを施してゆく誘導芸でもあったわけですが、
それって、今だともう真正面からは行使するのが難しいんだと思います。
(芸人の絶対数も増えたのだろうし、そのアプローチを行った段階で他の横並びの芸人達に弄られてしまうのだと思います。あと絶対的な中心メディアが不明瞭になってて、それぞれが分断的に存在しているためにプレイヤーは横断を余儀なくされカリスマ化ごと権威領土を拡大しにくい)
なので、表明せずに実質的に周囲から天才的な評価を得ることでカリスマ化を育む、というアプローチの手法になってゆくのだと思います。
やってる事は誘導芸なんだけど、そこに自認がない。
ここら辺の話は、陰キャ陽キャ理論とか、人見知り芸人的な表明とか、そういった他者からの価値規定による自己実存(社会参加)みたいな事とも繋げられるとも感じますが、難しそうなので今は置いといて、
つまり逆説的にそういうポジションを目指しているのでは…というのが伺える気がします。
そして、その上で山里さん、
彼は「天才じゃない」と自認しています。
これは、
オリラジ中田さんが「PERFECT HUMAN」だと自ら鼓舞する事で笑いを取っていたり、
ラッセン永野さんが「カリスマ地下芸人だった頃~」と半分自虐で語ってたり、
そういうような一周回ったボケ
の構造をしている自己プロデュース芸なのだと思うのですが、
山里さんのアプローチはツッコミ芸人のテクニックの一種として"過剰なへり下り"を常備していて、それが相反可能なボケとしても機能させているので、その降り幅の中でそれが自己啓発的なニュアンスも含みながら"本気"だとも捉えられるように設計してあるんだと思います。
もちろん、本人の性格を土台にしたキャラクター造形であって、それを一面体だけの虚構だと捉えるのは、また違うとも感じるのですが。
ここで言っている「天才」がどういうものを指しているか、という事になるのかが重要だと思います。
なので、
むしろその"天才への意識"という点で見ると、
以前有吉さんに
「スタジオ入りする時に"お笑いの天才"みたいな顔して歩いてきやがる」
みたいな弄りをされていた、若林さんの方が『本気』なんだと思う。
「天才はあきらめた」という自認を表明している段階で、南海キャンディーズ山里さんは、"そういうタイプの天才"を目指していない事が感じられる。
途中、永野さんのライブを
「信者に向けてやってる」とツッコミを入れていましたが、その縮尺と規模を変えたものを基本的に井口さんも行っているのだとは思います。
(オリラジ中田さんのテレビ批判芸とかもこういう仮想敵対)
これらから感じ取れるのは、井口さん批判ではもちろんなく、ましてやゴッドタンやバラエティ番組のマンネリ化への憂いですらなく、
冒頭に述べた、"加虐性"の一周
我々、視聴者、観客が、なにをサディスティックな潜在意識として求めているのかが変容したんじゃないかなと、ぼんやり感じています。
個人VS構造
みたいなものに共感や侮蔑を注ぐ快楽割合が高かった。今までは。
集団VS俯瞰
みたいな領域に暴力性や宗教っぽさとかも含まれながら昇華してる気持ちよさが出来上がりつつある気がします。最近は。
河本さんの流れブった切りすら、井口さんの統制の中に鮮やかに組み込まれてゆく様子に安心感すら覚えてしまいます。
井口さんがマジギライをハックしたのか、
マジギライが井口さんに乗っ取られたがっていたのか、
最後ビンタされずに終わってしまった事が、一番のダメージになっているかのような、そんな複雑な表情の井口さんを見て、鈍痛のようなエグられを擬似的に感じながら笑ってしまいました…
話をマジギライに戻します。
で、そういう角度の付いたいじられ芸を見せる場から、段々とテクニカルな側面を魅せてゆく面白さに変わっていったと感じてて、
有吉さん、東野さん、鈴木拓さん辺りが
企画に乗っかりつつも解体したり批評的な目線での論破を加えたりしだして、
日村さん、澤部さん、中岡さんとかが
完全なるパターン化を美しくこなしていったり(味変として別室から相方が副音声を入れてたりしたけど)、
どんどん形式が出来上がってゆき、それに伴って女性タレント側の脚本量が増え、掛け合いのシュミレーションも高度化されてゆき、それが出来てない事すら嫌われ側の芸人がフォローしたり司会側が別軸を組み立てたりしてセーフティネットが張られ、
なんか最初の露悪リアクションショーの地点からは遠くなってきているのを感じていました。プレッシャーの種類が変質していってる。
そして、そこで井口さんの登場。
しかも、近しい同期芸人メンバーを引き連れて。
プロレスとしてほぼパッケージングされてる状態に近いものを。
なので、むしろ井口さん側にエグめの批評軸が発生してる。
キモ芸ダサ芸的なもののリアクションの方が薄くなってて、それを担保に美しい毒を吐いてる(しかも、割りといつもの)
一周したと思いました。
小木さんが最初に居た地点。
そして、マジギライ5/1ですが
こちらは最初期はたしか小木さんが嫌われ側の席に座っていたと思います。
なんというかイメージなのですが、ゴッドタンって実験的な企画の時プレーンなアクターとしてまず小木さんを設定してみる事が多い気がします。(仲直りフレンドパークとか、喧嘩の途中に踊り出すやつとか、マジ歌にベッキーが出たやつとか)
そのあとはアンガールズ田中さん、フットボールアワー後藤さん、アンジャッシュ児嶋さん、南海キャンディーズ山里さん、と続いていってて
なんか漠然とした印象なのですが、
「受け身」の上手い人達のショーだった記憶があります。
キモ芸とかダサ芸みたいなものを自分から打ち出しているタイプのいじられ芸人さん達が、女性タレントにいつもよりエグめに"自分のダメなところ"を弄られて、その時の本気の凹みを隠しながらいつものようにリアクションを取れのるか、的な文脈の追い込みが仕掛けとして組まれていたと思う。
(その中で偶発的にキャバ嬢あいなさんが発見されて、めちゃくちゃ芸人批評的なキャラに成ってゆく、という中期での分岐要素があったとも思います)