今日の勉強会で、先生が、「アメリカの大統領を広島に呼ぼうと言うのは良いけれど、その前に日本はそれと同じことを(中国に)してるんですかね」と言うようなことを言っていた。
もちろんしてない。即答できる。なのに日本人は誰もそれに気づかずにいられる。そう言うとこだよな、と改めて思ったわ。
医者嫌いだけど医者には行く。でも田舎に帰ったら医者にはかかりたくないんだよな。まず周りが寛容じゃないから、なんで病気になったとか、迷惑だ甘えてるとかそれで休んで遅れた分はどうすんだとか親も教師もそんな態度。長引けば幽霊か腫れ物扱い。そもそも農家が繁忙期に誰か死のうものなら、葬式で故人の文句を聞かされるような社会だもんな(10年くらいしか昔じゃない)。
そして医者が威圧的、文化系に冷たく体育会系に手厚い。男と女で態度変える。たぶん親の地位によっても変える。小学校低学年の時にはやったらテレビゲームを敵視して私が隠れてやってる(隠れてない)と決めつけて、私ではなくついて来た母親をネチネチと叱りつけるので自分が言われるのより辛かった。
加えて医者引き悪いのばっかなのか。若いから大丈夫!で帰されたり、待合室の本棚が日本スゴイと嫌韓本で埋め尽くされてたり、医者本人が心療系サバイバーで診察室で長めの体験談が始まったり、男尊女卑という言葉を聞くや否や自分のことでもないのに反発して説教を始めるカウンセラーもいたり。
医者の権威化と悪いのは病人という価値観の悪魔合体みたいな世界だった。
「病院に行く」ということへの意識について
私は母方の祖父が内科医(町医者)だったこともあって
「体調に不安があれば病院に行く」
「なくても定期健診は大切」
「その方が長期的にみて医療費もかからなかったりする」
という感覚が強いのだけど、逆に他の人にとってはそうでないことも多いのだ、ということも意識しておかねばならないと思う。
最初に違いを感じたのは、実家の母だ。
母は実父(私の祖父)が内科医なので「体調面で不安があればすぐに実父に相談する」という習慣はあったのだけど、それは「病院に行くことに抵抗がない」こととイコールではなかった。私が子どもだった頃、母は病院に行くには行くのだが、「体調はどうですか」と尋ねられると「特に変わったことはありません」と答えてしまっていた。「もし病気だったら嫌だから」と。
私からすると「病気かどうかは医師に診断されなくても先に決まっていて、治療のためには診断が必要なのに、何を言っているんだ?」と思ったのだけど、「診断のせいで病気と向き合わなければならなくなる」という感覚(無意識の場合もある)は母だけでなくもっと沢山の人が持っているのだと知って、私は唸った。医療は万能ではないが、それでは治るものも治らない。
余談だが、母はもともと「手洗いうがいさえしていれば風邪をひかない」タイプなので、それが拍車をかけてしまった可能性はある。私が風邪をひいた時など、「なんで?」「どうせ手洗いうがいをしなかったのだろう」と責められた記憶ばかり残っている。母の影響で手洗いうがいは徹底するほうだったのだが、頑強な母にとっては「やるべきことをさぼった以外に病気に罹患する理由など考えられない」ようだった。…それでも内科医の娘なのか?とかなりおじいちゃん子だった当時の私は訝しみ、長い時間をかけて母への信頼が薄れる要因の一つになったように思う。
ちなみに今は母は病院で以前よりは正直に不調を訴えるようになったらしく、病気の早期発見も叶い、それ以外は相変わらず風邪も日々を送っている。うっかり利き手を骨折した時も料理や運転や習い事に精を出していたというのだから驚きだ。(正直療養に専念してほしかったが、それでも順調に回復してたまのリハビリに通っている)
話が逸れてしまったが、この「病院に行くと診断されてしまい、病気と向き合わねばならなくなる」→「病院に行くと嫌なことが起こる」という感覚はきっと多くの人にとって根深いものだと思う。
私のように最初から
「病院選びや医師との相性さえ悪くなければ少なくとも病院に行ったせいで悪化することはない(院内で別の感染症をもらってきてしまう場合は除く)」
「病院に行った結果何も異常がなければそれでよしと安心できるし、異常があれば治療に専念できる」
とあっけらかんとメリットばかり享受できるタイプは案外少ないのだと思う。
だからこそ己の感覚で気軽に「病院に行ったほうがいいよ」と言ってしまう前に少し考えたほうがいいのだ。言われた側にとっては大きなショックを受けるかもしれない。かといって明らかに体調を崩している相手に対しては「病院に行って」が他人としてできる最善のアドバイス(というか他にできることが少ない)なことが多いが、医療費の問題もあるし、それがなくとも「病院に行くとなにか良くないことが起こる」という感覚があればアドバイス自体が相当なストレスだろう。
せめてそのことを忘れずに言葉を選ばねばならない。
中国を覇権がどうとか言って怖い国の例に出す人、たいてい中国が第二次世界大戦で日本から受けた凄まじい被害について賠償請求権を放棄してくれたことすら知らない。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/rp/page22_002287.html
韓国文化を楽しむなら加害の歴史に向き合うべきか
https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20221129/pol/00m/010/004000c
まず設問から何重にも間違っている。
韓国文化を楽しむか楽しまないか以前にまず自国の歴史を知るべきだし、”加害の歴史”を知らないという無知に恥ずべきだし。
そしてシメは”過去の歴史にとらわれず仲良くやってこう”みたいな。
ちょっと言葉を失いますね。
まあでも、如何にもジャパン、という感はあるなと。
如何にもジャパン。
《一九八〇年代から続いてきた長野県の「ピンピンコロリ運動」は、ぴんぴん生きて、寝付くことなく、家族に面倒をかけずに、ころりと死ぬことを目指す、とされています。 高齢になっても健康で「迷惑をかけずに」生を終えたいという希望を否定するわけではありませんが、ともするとその希望は強迫的な「自立」志向、そしてそれと裏表にある、「自立」の減少や欠落への強い忌避感に繋がります。「自立」の無理な追求は、ひとつ間違えば、老いや病を拒絶し否認し、老いたり病んだりした人々の生きる場所を奪うことになり かねないのです。》清水晶子『フェミニズムってなんですか?』(文春新書、2022)
もう10年くらい前だろうか。鬱がひどく主治医に「生きていても役に立たないから迷惑をかけずに死にたい」と訴えたら、静かに叱られた。「あなたはあなたより重度の障害者についても”役に立たないから迷惑にならないよう死ぬべきだ”と考えますか」と。違う違う、そうじゃない。けれど……。
しばらくして、相模原障害者施設殺傷事件が起こった。犯人は名前を聞いて答えられなかった者を「役立たず」と見なし、殺傷した。
私も彼と同じ様に、自分を「生産性」で測ろうとしていた。
「アウティングをする人は悪気がないこともありますが『差別なんてないよ。みんな知っても大丈夫だよ』『別にたいしたことないよ』とその人が思っても、残念ながらまだこの社会はそうじゃないことが多い」性のあり方に限らず機微な情報は勝手に決めつけず本人に確認すること。
https://www.buzzfeed.com/jp/sumirekotomita/whats-outing
何が言いたかったかというと、成功体験が有るか無いかがすごく大きいよねってこと。今の日本を今後どうしていったらいいのか、何ができるのか考えていたらそう思った。成功体験があると、またその行動を起こすときにすごく腰が軽いの。やり方もわかってるし、うまくいくイメージもあるし。韓国とかフランスの大規模デモのニュースとか見ると、日本の市民として成功体験があるっていいなとつい思ってしまう。
QT: https://fedibird.com/@songyuka_/109720571144640011 [参照]
反差別等について終わりなき勉強中。トランス差別に反対します。フォローはしない方針。21年4月から肉・魚やめた。乳・卵も極力避けてる。オタ話もするよ。