《一九八〇年代から続いてきた長野県の「ピンピンコロリ運動」は、ぴんぴん生きて、寝付くことなく、家族に面倒をかけずに、ころりと死ぬことを目指す、とされています。 高齢になっても健康で「迷惑をかけずに」生を終えたいという希望を否定するわけではありませんが、ともするとその希望は強迫的な「自立」志向、そしてそれと裏表にある、「自立」の減少や欠落への強い忌避感に繋がります。「自立」の無理な追求は、ひとつ間違えば、老いや病を拒絶し否認し、老いたり病んだりした人々の生きる場所を奪うことになり かねないのです。》清水晶子『フェミニズムってなんですか?』(文春新書、2022)
もう10年くらい前だろうか。鬱がひどく主治医に「生きていても役に立たないから迷惑をかけずに死にたい」と訴えたら、静かに叱られた。「あなたはあなたより重度の障害者についても”役に立たないから迷惑にならないよう死ぬべきだ”と考えますか」と。違う違う、そうじゃない。けれど……。
しばらくして、相模原障害者施設殺傷事件が起こった。犯人は名前を聞いて答えられなかった者を「役立たず」と見なし、殺傷した。
私も彼と同じ様に、自分を「生産性」で測ろうとしていた。
@2d3m13
上野千鶴子氏が『おひとり様の老後』の中で、ピンピンコロリを「健康ファシフト」と呼んでました。
加齢とは障害者になること/近づくことを含む。不便や痛みなどインペアメントと付き合い続けなければならないことへの恐れも理解できる。
しかし、その中に新自由主義的な思想、「効率/利益/経済発展」が潜んでいないかはよく考えた方がいい。
《「自立」の要請を、どうやって自己責任論に回収させないでおくか「自立」しなくても人の人間としての権利と尊厳をもって生きていける社会をど 作るのか。他者に依存し同時に依存される適切な形とはどのようなもので、それを私たちはどうやって身につけられるのか》
と清水は問いかける。
とても大切な問いだと思う。