「この人はとても面白い人です」「この人の言うことは一理あります」というような宣伝というか設定をみんななんの疑問もなくそういうものとして受け入れてるのちょっと不気味ですらある。
やっぱりそれをずっと起用しているテレビ局がまともにメディアとしてののお仕事する気がないってとこがネックですよね。
報道もだし、娯楽番組も。
(だって特に見識も芸もない、普通のおじさんが普通にぐちって、しかも面白いと勘違いしている番組って、娯楽番組として質が良いか?っていう)
何を伝える番組を作りますか、それはなぜですか、それにどんな人を起用しますか、それはなぜですか。
っていう。
10〜20代の若者が石丸伸二に投票するのはまだ「若気の至り」で済まされる話ですが、30〜50代の人間の場合は「日本人の知性の劣化と幼稚化」と批判されても仕方がないでしょう。「失われた30年」といわれる経済停滞と財政危機、今後数十年は続くことが確実となった人口減少、そして地球温暖化と、数々の難題が山積している日本で、まともに政策立案もできない政治家を有権者が選んでいたら、社会が崩壊してしまうのです。
立憲(の一部)「負けを認めない!負けたのは一人街宣のせいでござる!」
暇アノン「負けを認めない!関係ないが、悪いNPOは他にもいるでござる!」
イスラエル「負けを認めない!国際司法裁はハマスでござる!」
トヨタ「負けを認めない!EVだ不正だ言うのはジャパンラブが足りないでござる!」
不正に揺れるトヨタ、会長「今の日本は頑張ろうという気になれない」:朝日新聞デジタル https://digital.asahi.com/articles/ASS7L26DCS7LULFA00WM.html?ptoken=01J37FKBAK5HY22T2Y16DWD5NK 7月21日
16:09まで全文閲読可能。
「今の日本は頑張ろうという気になれない」
「ジャパンラブの私が日本脱出を考えているのは本当に危ない」
「日本のサイレントマジョリティーは、自動車産業が世界で競争していることにものすごく感謝していると思う」
「業界の中の人にも感じるような、応援はぜひいただきたい」
「(報道陣は)強い者をたたくのが使命と思っているかもしれないが、強い者が居なかったら国は成り立たない。強い者の力をどう使うかを厳しい目で見るべきだ」
感想:これは、批判への耐性が乏しい企業人の脆弱性ではないだろうか。正当な批判を攻撃と受け止めてしまい、反省の弁を出すべきところを自己正当化を図ってしまう。
人種差別や植民地問題に関する正当な批判を耳にした白人が「自分たちが攻撃されてしまっている」と受け止めてしまうことを「白人の脆弱性」と呼ぶ。
その変形としてここでは「企業人の脆弱性」という言葉を使ってみた。米国のテクノロジー企業でも規制当局との対決姿勢が目立つが、その一つの背景といえる。
アメリカで1970年代辺りから、労働者を基盤とした社会運動が衰退し、大学に基盤を置く活動家(大学の教員で政治活動家というタイプ)が社会運動や左派の実権を握るようになったんですね。彼らは属性(性別、肌の色、性自認など)に基づく正義と権利を主張した。それがアイデンティティ政治。
都知事選ってだれか「属性にもとづく正義と権利」を主張してたんだっけ…。しいて言えば田母神とか桜井誠とかだとおもうんだけど、得票数みるかぎりどうみても後退しているとおもうけど。蓮舫がそう主張しているとおもったのであれば、よほど歪んだ眼鏡をしていて、蓮舫は自身の出自(女性であることとか台湾系であることとか)についてほぼ喋っていなかったとおもう。
Apple banking partner Green Dot has been fined by the Federal Reserve over deceptive practices related to its tax-prep and prepaid debit card fees: https://appleinsider.com/articles/24/07/20/apple-financial-partner-green-dot-slapped-with-millions-in-fines-over-hidden-fees
誰が言ったのか失念してしまったが、儒教の「礼」について私にも理解できる説明を読んだか聞いたかして、なるほどなあと思ったことがある。
儒教の徳目である仁義礼智云々の中で、「礼」だけが非常に曖昧じゃないですか?仁=愛、思いやり、義=公平さ、正しさ、智=知識、智恵ということで理解できるけれど、で、礼って何よ?礼儀正しさ?いや、だから礼儀って何よ?ということで何かよく分からない。
私が聞いて感心した説明では、礼というものは、政治の現場で有効な力を持つ様式美を実現するための実務的な技術のことである、ということだった。つまり、こういう形式のかっこいい儀式にすると下の者たちがお互いに争わずに、君主のよく従ってくれるようになりますよ、という即効性のあるノウハウ。それを伝授するから召し抱えろと君主に売り込んだコンサルやマナー講師みたいな連中が儒家であった、と。
なるほどなあと思いませんか?私は思った。
(誰が言ってたのかなぁ。知っている人がいたら教えて下さい)
そういう礼の歴史を念頭に置くと、起工式・地鎮祭みたいな儀式も、その仕組みと言うか、政治の世界における機能を理解しやすくなると思う。
「ここにある一切は、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである。」―「彼自身によるロラン・バルト」扉表紙