わたしは世界中の金と欲とびっくり人間が一堂に会して血眼になって争うオリンピックはそういうコンセプトであれば別に嫌いじゃないのよ。オリンピックをめぐるあれやこれやのおためごかしが死ぬほど嫌いなの。
千葉聡「「オリンピック」を創設したクーベルタン男爵は、じつは「優生思想」に影響されていたという「驚愕の事実」」
https://gendai.media/articles/-/118820?page=2
「フランス人男性を遺伝的に強化し、「筋肉共和国」を実現しようと考えたクーベルタンは、英国のパブリックスクールに注目し、ラグビーを輸入した。その結果、多数のクラブチームが誕生し、対抗戦が始まった。またクーベルタンの提唱によりスポーツアスレティック協会(Union des Sociétés Françaises de Sports Athlétiques)が設立された。
1892年、スポーツアスレティック協会の会合で、クーベルタンは近代オリンピック開催を提案する。フランス国民の資質を進化的、遺伝的に向上させるために、スポーツ先進国の競技を知り、世界のアスリート(ただし欧米の白人)を集めてフランス人と戦わせようと考えたのである。
世界の一流アスリートとの競争や、彼らに勝つための努力は、精神的、肉体的な資質を向上させ、次世代のフランス人アスリートの先天的能力を強化する。また競技を見たフランス人のスポーツ意欲を高め、その結果獲得された体力と精神力が遺伝して、国民全体の能力が向上するだろう。」
ボクシングに関してパンチ力という生得的な体格差が影響する物理的な差を競ってはいけないとするならグローブに細工するか全身防具でやるフェンシングの拳闘バージョンを新たに作れば良いのではないか。
東京出店決定
北九州発の「資さんうどん」、東京1号店は両国に! ファンから「行きます!」「楽しみ」と喜びの声(1/2 ページ) - ねとらぼ https://nlab.itmedia.co.jp/nl/spv/2408/02/news119.html
テニスでも長身のビッグサーバーの有利さを緩和するためにジャンプしてベースラインより前でサーブを打つことを禁止したりバウンドした時にボールのスピードが死ぬ様にコートを変えたりとかしてる。
それ故に196センチのラオニッチと178センチ(公称)の錦織との間で “錦織が5勝2敗とリードしているものの、7試合中5試合でフルセットまでもつれており、プレイした25セットのうち、10セットはタイブレークに突入” (Wikipedia)という火を吹く様な緊張感のある名勝負が成立したりする。(ラオニッチ以外でも錦織はビッグサーバーに強い。故に海外でも人気があったし同業者の支持も厚い。)
錦織は新サーフェスの申し子みたいなところがある。旧USオープン会場のスケートリンクみたいなハードコートだったら錦織の準優勝は無かったと思う。
それでも芝とクレーの差は如何ともし難くおよそ同じスポーツとは思えないくらい試合展開が違う。(ちなみに芝の種類も時代で違う。)だけどそんなのをいちいち不公平とは言わない。
Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/ミロシュ・ラオニッチ
だからこそスポーツの世界に染まりきると「システムの不公平さを緩和しよう」という動き、つまり反差別的なありかたにピンと来ないマッチョな生き方をしてしまう傾向もあるのだけど、とはいえスポーツでも不公平さの緩和は可能な限りしていて、その塩梅の積み重ねが「ルール」として表出している。だから長い歴史のあるスポーツはルールが細かくあったり、なんでそんな微妙な数字?みたいなのもある(野球のマウンド-ホームベース間は18.44m=60フィート6インチとか)。
それでも不公平さは取り除けないし、だからこそたのしいとも言える。強風が名物の千葉マリンスタジアムでは不慣れなビジターチームはフライを落としやすいが、ホームチームですら落とすこともある。ホームランのはずが平凡な外野フライになることもある。風が吹くタイミングなんて制御できなきのだから、こんなことに文句を言っても仕方がなく、呆れて笑うのが健全な楽しみ方である。
女子日本代表でストライカーやってた人と小学校が同じだったから一緒にサッカーやってましたけど、2学年上かつその頃にはすでに身体ができあがってるようなその人相手に、常に背の順では先頭で腰に手を当てるポーズをしていた私は叶うはずもなく、くやちいくやちいとやっておりましたが、だからといってその人を排除したいとは思わなかったよね。なにも言わなければ男と認識されてもおかしくない体つきだったからたぶんテストステロン値とかは高めだったと思うし、そんな「女性」はどこにでもいる。そしてそんな「女性」相手に「身体能力の差」で負ける「男性」もたくさんいる。そういう「不公平さ」を含んだうえでやるのがスポーツ。
スポーツやってると「生まれ持ったものの差」に対する腹立ちやら嫉妬やらは日常茶飯事なんだけど(「あんな大きい奴に勝てるかよ」「あれだけ足が速ければな......」とか)、そこに「差別したい者」が乗っかってこれちゃうのがスポーツ界におけるトランス“問題"なんですよね。選手当人らはふだんやってる「背の高さ」「足の速さ」とかへの愚痴くらいの感覚で言及していても、差別したい者らはそれを利用できてしまう。
そして選手たち(少なくともトップレベルでやってる者ら)は、そんな「生まれ持ったものの差」による「不公平さ」なんてものは織り込み済みで、だからこそ日々練習をしてそれを乗り越えようとしている(がゆえに愚痴も言いたくなる)。つまり余計なお世話だから黙っているのが吉。ナンオブユアビジネス。
私はアプリ名を一般名詞にすることについてどちらかというと反対派だったんだけど、最近は立場が揺らいでいる。もし、このスクリーンショットに写っているアプリ名がすべてオシャレな名前でアイコンも名前に由来するものだったら、第一印象は「何ができるのかわからない」だったと思う。
「ここにある一切は、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである。」―「彼自身によるロラン・バルト」扉表紙