走ってきた。約4km を24分ほどなので 6分/km と。久々だったのもあるが、極端に速度が落ちたという訳ではない。
ただ、筋骨が弱っているのだろう。心肺よりも、足首や膝への負荷を感じたので、短時間で切り上げた。故障したら、回復するのに時間がかかって、再開どころではなくなるので。少しずつで良いので、ピーク時の自分を取り戻そう。
半分だけだが、片手腕立て伏せができるようになった。回数はこなせないものの、正しい姿勢を崩さずにできたのは進歩だ。大股を開いてやる人もいるが、本に書かれているように、脚は閉じた状態でやっている。
ブリッジは、まだ壁づたいでの上下運動をしている。壁の補助なしで後ろに倒れたり、そこから起き上がったりできるようになるのか、現時点では半信半疑ではあるが。
逆立ちは、未だに壁の補助つきで、姿勢維持1分で限界がきてしまう。目標の2分間への道は険しい。
スクワットは、最終段階のピストル・スクワットに到達している。が、回数がこなせない。せいぜい10回程度で限界がきてしまう。
懸垂と、足上げ腹筋に関しては、公園に行く必要があるので、朝ランの時にやっていた。そろそろ、朝ランする習慣を取り戻したいが、まだ睡眠の方を身体が欲している。
囚人トレは、ダンベルなどのジムでやる筋トレとは違い、継続力が、より強く求められる。サボっていたら、一向に進まないが、継続していると、ある日、突然、次の段階に進める。できる、できないが、かなり明確に出るので、自分に対するごまかしが効かない。
私自身、本物の囚人になったことはないが、見方を変えれば、多くの人々は、現代社会の囚人のようなモノだ。一人で黙々と取り組むのが好きな人に向いているのかと。
Twitter では、文字数を多くするためだけに金を払うことを要求される。さらに、広告が入るのを防ぐためにも、また金を要求される。収益化を図りたいのは分かるが、Mastodon のような代替サービスがあることを知っていれば、Twitter を使うことに、大きなメリットが私にはない。
Twitter にメリットがあるとしたら、そこで築いた人間関係だろうか。気づいたらもう15年以上も前に使い始めたサービスだ。何年の付き合いかは覚えていないし、遣り取りしているユーザも多くはないのだけれども、私の妙な記録に付き合ってくれる貴重な人たちがいる。
Mastodon では、テーマを明確にして投稿するようにし、Twitter は従来どおり、脳内の言葉を排出する、というようにしたい。英語で呟くための別アカウントも用意している。これは、日本語で呟くのとは違った切り口で雑感を垂れ流すように使うことにした。英語も使わないと錆びついてしまう。特に書き言葉で書く力を衰えさせるのは、もったいないので。
珠算は、数字を瞬時に覚えて指を動かすので、それなりに脳に負荷をかけているのだろう。算盤のイメージが頭の中でできたら、暗算もやりやすくなる。
計算機がこれだけ発展した時代に、なぜ珠算か、というと、頭を退化させないため。使わないでいると、怠惰な脳はどんどん劣化してゆく。仮名漢字変換が発展した結果、手書きで漢字を書けなくなってしまう大人のように。
手書きで字を書くことに関して、速記法を独学しようと思っていたが、やはり文字の美しさを知る私としては、普通に文字を書いてメモを取ることにした。要点をまとめるために、脳を働かせて、最小限の文字数で記録を取る、という訓練になる。速記は便利かも知れないが、脳内で要約する過程を疎かにしてしまう可能性があるので、やらないことにした。計算機上で機械速記を学べば十分かと。
段ボールで迷路を作成したくなる時がある。制約として
1.始めと終わりまでの道のりが1通りであること
2.始めと終わりを往復でき、かつ、異なる経路であること
3.玉を取り出さなくても、戻ればやり直しがきくこと
を課している。限られたスペースを最大限に利用するために、遊ぶ側の思考も考えながら、死角に抜け道を作り、順路としている。大人も、それなりに楽しめると思う。
子どもならば、必ず興味をひかれるかと。誕生日と聞いて、プレゼントしたくなり、公園にもっていった時、他の子どもが列を作って、遊びたがるくらい。
中には、自分で作成したくなった、と言って、親を巻き込んで作り始めた子どももいる。その子の親からも感謝されて、良い趣味をもったものだと我ながらに思う。
Mastodon で投稿する際、自分のプロフィールを表示できるのが良い。自分で選んだトピックを確認できるので、雑音が入りにくい。自分の進捗の記録をするのに丁度よい。Twitter では、思ったことを反射的に投稿するのに対して、ここでは、自分の柱となる事柄に絞る、という棲み分けができそう。
10ホールズは、娘の卒園式の時、園児たちへの祝福を込めて、パッヘルベルのカノンを C に移調してトライしようと思っていたが、計画倒れ。
結局、段ボール迷路2つと、折り紙で薬玉を作って贈っただけに終わった。まぁ、自分らしい祝福の仕方ができて良かった。子どもに「何でも作れるんだね!」と褒められて、妙に嬉しかった。
とりあえず、10ホールズは一芸として磨きをかけたい。腹式呼吸で、呼吸器系に負荷をかけるのにも適しているので。
娘を喜ばせようと、娘の好きな曲の楽譜を購入するも、カノンと同様、移調の段階で止まっている。Muse Hub という、楽譜を打ち込み、移調も容易にできるソフトウェアを導入したところ。
その前に、個人的な興味で Blender で3次元モデリングにハマっている。やりたいことが多くて、困っている。
今さらながら、ニーチェの思想を学んでみた。ルサンチマン(他人への妬み、嫉み)、ニヒリズム(虚無主義)など、今の日本人、いや、私にしっくりくる考え方が並んでいた。
ただ、彼の素晴らしいところは、そんなことが未来永劫、繰り返すような人生を歩みたいのか?それを何度も繰り返す覚悟はあるのか?「今に見てろッ!」を発揮しないのか?という意思を明確にもって、力強く生きてゆけ、という結論だった点だ。
奴隷として、雇われの状態に身をやつすならば、戦って散ってみろ、という気にさせてくれる。彼自身、発狂した後、亡くなっているのだが、人生は、そういう狂気であふれている。それを行儀よく、表に出さないで、内にくすぶらせて、他人に陰で揶揄する日本人の文化には生産性を感じない。価値がない。
人を集めて、誰でもできるような雑用をやらせる時代は終わった。少数精鋭で、誰も到達できない地点を、自分たちの目的としても良い時代になったのだ、と。そこに、自分たちの生きる意義を見つけなければ、と気付かされた。
壮大な勘違いかも知れないが、他人の考えていたことなど、本人以外、正確に知りようのないことだ。思考の種になれば、それで十分なのかも。
今さらになって「愛」の大切さに気がついた。対象が人間に限らず、自分が情熱を傾けられるモノは、自分が「愛」を実践できる機会を与えてくれる。
多くの人は愛されることに、ご執心だが、いちばん大切なのは自分が「愛する方法」を学ぶことだ、と有名な古典にも書いてある。なぜ、それをしなくなったのだろうか。恐らく、資本主義が加速しすぎて、人すらコモディティ化してしまったからだろう。自分が与えてあげるより、選ばれる存在になることに重きが置かれるようになったから。
科学技術は発展したかも知れないが、この変化によって、多くの人は、自分が心から対象を愛することを忘れてしまったようだ。他人に与えられた「それらしきもの」を信じて均一的な価値観をもつ生物に仕立てられる。そして、社会の都合のよいように使われる。そんな中で、自分自身への愛がない人間が、どうして他人に対して愛をもてるというのだろうか。
近年の少子化は、こういう要因もあるのかと。自分の人生でありながら、自分の人生として歩めていない。金だけで人は動かないのだ。そりゃ、生物として滅びる方向に向かってゆくだろうな、と思えてならない。
最近、様々な事象について、政治家の失言が目立つ。それについて適当に謝罪することで、簡単に受け入れてしまう社会がある。本人は何が問題なのか、真に理解しているのだろうか。凝りもせず、平気な顔をして、違う役割を演じ続ける。
節操もなく、海外の宗教的儀式や、イベントを取り入れる日本の文化の弊害なのか。モノマネをするのは良いが、その本質まで理解せず、表層的に真似をしているだけ。単にノリで「ご時世ですから…」なんて、裏では舌を出していそうなのばっかり。
もう独自路線をいったらいいんじゃないだろうか。人間の価値観など、そう変わるものではない。老人が支配するこの国で、価値観が変化するのは、彼らが死に絶えた後のこと。現状のような「白々しい茶番」を繰り広げ続ける必要もなくなるんじゃないかと。
新年早々、妻に言えないくらいの淫夢を見た。あまりもの異様さに、妻にはできるだけ詳細を伝えた。もし頭がおかしくなって、急死したら、何かのヒントになるかも。
さておき、その話を聞いた時の妻の反応が意外だった。普通は、良からぬことを考えていると、非難されるものと勝手に思っていた。が、「性欲が戻ってきたのか!」と、逆に喜ばれた。人というものは分からない。身近で生活している妻ですら、どんな思考回路をもっているのか不明だと、改めて感じた。
ということは、逆に自分が悪感情を抱いた時、心や頭の中で、どれだけ相手を痛めつけることを想像しようが、相手は知る術がない。中にはハッキリ、言葉として発しないと分からない、知能の低い生命体もいるが。
脳内の自由な世界を構築したい、という想いが更に強くなった。一足先に Matrix の世界観を自分の脳内だけで実現できるように訓練しよう。世の中の大半はゴミで、私の人生とは関係ない、と。
雑感を投稿しています。