(長文)
早い時期からトランスジェンダー(特にFT 系)のエスノグラフィーを手がけてきた研究者の鶴田幸恵さんが、新たにnoteを始め、カナダに移住した経緯やご自分の背景を語り始めたことを知った。
非常に複雑なアイデンティティを持ちながらそれを抑圧し/させられてきたようだが、なぜそれだけの苦労をしてきたはずの人が、かつて私のことを「性同一性障害の吉野靫」と学会レジメや論文で記述できたのか、それは何年経っても引っ掛かっているし、当時は十分に傷ついたし、どうしても解せない。
そもそも私は「自分にとって性同一性障害は便宜的なもの」と公言していたのだし、「性同一性障害の診断を受けたことを明らかにしている吉野靫」と、「性同一性障害の吉野靫」が全くの別物であることくらい、明確にわかっていただろうに。そして正規医療で事故に遭い、裁判で被告から「壊死は原告が術後に不適切な生活をしたせい」と主張され、古参の当事者から激烈にバッシングされた私にとって「性同一性障害」の語がどういう意味を持つかくらい、簡単に推し量ることができたろうに。
(続)
批判を経て思想が鍛錬されるのはその通りだけれども、たとえばトランスというあり方を巡って、あるいはたアイデンティティを巡って、あるいは誰が女性なのかという問題を巡って、フェミニズムが鍛錬して練り上げてきた思考を踏まえて話をするのでなければ、その主張には意味がないでしょう。単にガラガラポンで蓄積を無かったことにするのは、批判を通じた思想の鍛錬とは違うのではないかと思います。
というか、このような問題についてフェミニズムの思考がどのような批判を受けて何をどう考え直し鍛錬されて来たのか、ここで一言で簡潔に同意表明されている方は、ご存じなのだろうか。それを踏まえずに単に「そうだねこれらの問題についてフェミニズムはもっと批判を踏まえて思想的に鍛錬されるべきだね自分もそう思うよ」と仰っているなら、フェミニズムの思考を馬鹿になさるにも程がある、と思う。
何かの問題を考える時、単に誰かや何かを批判するより、その本質を叩きたくなって、個別具体的な例から普遍的な説明が見つからないか、考えてしまう。
今は「市井の人々」という単語が頭から離れない。
「市井の人々」が「大衆」でもいい。
多分、元々は「市井の人々」というのは「格差社会の上の方では無い特別なところのない普通の私達」という意味を含んでいたと思う。
それが「上」に向かって声をあげるという意味で、「市井の女」が「男」や「アカデミアの女」に対して物申すという形にしたかったのだろう。
なんで、ここで、無関係なトランス女性が踏まれる羽目になったのか?と思う。セックスワーカーも市井の女には入れられないだろう。
多分「アカデミアの女が担ぎ上げている」という理由で。
そうやって排除する「特別な女」を設定して、自分だけ「市井の女」の中に入れても、いつ自分も排除されるか?わからないのに。
あとアカデミア批判するのはいいけど、「自分は無知で無学だけど〜〜」という言葉をわざわざ文頭に置いて学ばないことを肯定するのはどうかと思う。
勉強しなくても声はあげられるけど、無知で無学なことは自慢にはならない。勉強したら「市井の女」で無くなるとしたら、怖いことだ。勉強した女は女にあらず、という前時代的な主張になる。
「2023年1月31日に、ジュネーブの国連本部で115の国連加盟国から、様々な国が人権状況について勧告を受けた。その日本に対する総数が300で、これは日本への勧告としては過去最高」
勧告に対し日本政府は受け入れるか拒否するかを表明し、accept受け入れれば勧告内容の改善義務が生じる。
避妊: Accept(受け入れる)
中絶: Not Accept(受け入れない) /一部受け入れる
性的マイノリティの権利:Not Accept (受け入れない)
2つ目3つ目は衝撃的だけど詳細読むと暗澹たる気持ちになる。
他にも「女性、性的マイノリティ、障がい者、子ども、先住民、移民、無国籍者等、様々な属性を持つ人に対するあらゆる差別の禁止や、死刑制度、核や原発をめぐる問題、人権に対する理解の促進と国内人権機関の設置要求など、勧告の内容は多岐に渡る」
最後の方に日本が開催国だったG7の公式声明が載っている。よくもこんな矛盾する内容の声明を一緒にしれっと共同で出せるものだ。
この辺の矛盾もさすがに各国にバレバレなのでもう本当に世界の中で信用おけない国認定されていると思う。
関東大震災直後の「自警団」を構成した人々の階層(「加害者像」)については、「店子階級」とか「都市下層」など、さまざまな研究の蓄積があるようだが、佐藤冬樹『関東大震災と民衆犯罪――立件された一一四件の記録から』(筑摩選書、2023年)では、ごく一部が立件された虐殺裁判の被告を精査するとともに、階層横断的に組織された「自警団」の構成などから、〈虐殺事件には、あらゆる年齢層の男性が加害者、殺害者に加わった〉、職業別に見ると〈農民、漁民、商人、職人が主力であった〉ことを導き出し、〈「ふつうの地元民」〉としか言いようがない集団を描き出している。https://amzn.to/3LBFi7q
めたくそよかった。めたくそよかった!!!
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トップが差別を容認すると、その集団に含まれる差別をしたい層が大手を振って活動するようになる。トランプが大統領になった後のアメリカ合衆国のように。
テスラ 「工場で黒人従業員に対し人種差別」当局から提訴 | NHK
(ええと、「第二波フェミニズムまではトランス排除が当たり前だった」という記述をBTで見かけたのですが、ちょっと正確ではないです。
第二波というかラディカルフェミニズムの時代、ラディカルフェミニストの中にもトランスの人たちはいました(現在の表現だとトランスフェミニンに当たる人もトランスマスキュリンに当たる人もいます)。それも、トランスの人が一人いた二人いた、とかじゃなくて、ある意味では「トランスフェミニンな人たちを排除するかどうか」が議論になるレベルで(そしてそれが一方的な議論にはならず、トランス女性を擁護する人々が多数出てくるレベルで)、あるいは「トランスマスキュリンな人は女性性への裏切り者なのか」が真剣に問題になるレベルで(そしてそのような問題提起に対して何を言っているんだと憤るレズビアンたちが多数いたレベルで)、トランスの人たちはフェミニン側もマスキュリン側も、フェミニストとして活動していました。
ラディカルフェミニズムの主張が「女性」を非常に限定的に定義しがちで、そこに根差した強烈なトランス排除の主張が生まれたのも事実なのですが、それが全部ではない、というか。)
〈Twitterより転載〉
報道にある通り、立命先端研の教員、立岩真也さんが亡くなりました。厄介な病気とは知りつつ、何日か前まで普通にメールもあり、本人もずっと戻ってくる気でいたと思うので、この事実を受け止めかねています。
2006年、医療訴訟と生活を両立させるために、先輩に勧められて立岩さんに会いました。だから彼を研究者として評価するとか学問への憧れということとは距離があり、ただ助成金書類を書いて食い繋いだり、危ない精神状況のときに話を聞いてもらったりすることに関して世話になっていました。本当に変な人でしたが、立岩さんも私を変人だと思っていました。だからこそ先端研で博論を書くことができたし、激しい浮き沈みの中で本を出すこともできました。
まだ思い出を語るような段階ではありません。立岩さんに関するURLを置いておくので、その人となりに触れてもらえると私も嬉しいです。
・カライモ学校 吉野靫×立岩真也
『誰かの理想を生きられはしない
とり残された者のためのトランスジェンダー史』刊行記念トーク
http://www.arsvi.com/2020/20201103yy.htm
・東京大学REDDY連載「生活するトランスジェンダー」第8回「悩みはいばらのように降りそそぐ」
http://www.reddy.e.u-tokyo.ac.jp/act/essay_serial/yoshino.html#20220126
「ストを打つ」という言葉を最近メディアで目にすることが増えている気がする。社会がここまでひどいことになってきたからだろうけど、労働運動が盛んになるのはとてもよいことだと思うし、市民として労働者として連帯したい。
ストの話が出てくる本を1冊訳せることになっているのだけど、そういう本がもっと刊行されればいいな。
BTS 公式Twitter 投稿アーカイブ
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