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近日所感
萩原朔太郎
朝鮮人あまた殺され
その血百里の間に連なれり
われ怒りて視る、何の慘虐ぞ
底本:「萩原朔太郎全集 第三卷」筑摩書房
1977(昭和52)年5月30日初版第1刷発行
1986(昭和62)年12月10日補訂版第1刷発行
(青空文庫)
朝鮮人虐殺:親の目の前に子供たちを並べて首を切った「本庄事件」
https://vergil.hateblo.jp/entry/2018/10/03/204724
>惨殺の模様は、とうてい口では言いあらわせない。日本人の残虐さを思い知らされたような気がした。何百人という群衆が暴れまわっているのを、一人や二人の巡査では、とうてい手出しも出来なかった。こういうのを見せられるならいっそ死にたいと考えたほどだ。
>子供も沢山居たが、子供達は並べられて、親の見ているまえで首をはねられ、そのあと親達をはりつけにしていた。生きている朝鮮人の腕をのこぎりでひいている奴もいた。それも、途中までやっちやあ、今度は他の朝鮮人をやるという状態で、その残酷さは見るに耐えなかった。後でおばあさんと娘がきて、「自分の息子は東京でこのやつらのために殺された」といって、死体の目玉を出刃包刀でくりぬいているのも見た。
安田浩一さんが関東大震災の本を執筆するさいのエピソードで、とび口がどういうものか実物を見たくて、ホームセンダーで若い店員を呼び止めて買おうかどうしようか逡巡したあげく買わなかった、というエピソードを延々と話していて。
で、鎌との違いもずっと話していて。
なぜその長いマクラを繰り返し語るのか、というと、とび口は人やモノを切るための道具ではないから、なんだよなと。
建物を破壊するための道具であって。
でも関東大震災虐殺では、その切るために使われるものではない道具でもって朝鮮人の頭をカチ割り、動かなくなった死骸をひっかけて運んだのだと。
そこに対する狂気というか、人を人と扱わない、外来種の駆除みたいなメンタリティに愕然としたからなのではないか。
そしてそれは101年前の今日、突如おこったメンタリティではなく、数十年にわたって培われていったメンタリティなのだと。
聴覚障害者などが”間違って”殺された、というけれど、たぶん殺した人々は、朝鮮人や中国人といった二等市民、市民ですらない不可触民だと信じ込んでいたから障碍者も平気で殺害したのではないか。
〇地震と虐殺1923‐2024/安田浩一さん(中央公論新社)
〇それは丘の上から始まった 1923年 横浜の朝鮮人・中国人虐殺/後藤周さん(ころから)
〇震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王起天はなぜ殺されたか/仁木ふみ子さん(青木書店)
〇関東大震災と中国人 王起天事件を追跡する/田原洋さん(岩波書店)
〇関東大震災と中国人虐殺事件/今井清一(朔北社)
〇大原社会問題研究所雑誌668号・横浜における関東大震災時朝鮮人虐殺/山本すみ子さん(法政大学)
〇横浜華僑社会の形成と発展 幕末開港期から関東大震災復興期まで/伊藤泉美さん(山川出版社)
〇18人の遺族とともに 関東大震災91周年 虐殺された中国人労働者を追悼する集い報告集/関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い実行委員会
等々、関連書籍・文献があります。ぜひ読んでみてください。
関東大震災時朝鮮人虐殺と関東大震災時中国人虐殺には違う性質がある。
当時中国人は大きく2つの属性のようなものがあった。
一つは、商店主や事業者、所謂士業、或いは三把刀(三種の刀、調理・理髪・テーラー)、留学生等の者達。
もう一つは、土木建築・荷役等を担う労働者。
当時の日本では、国策で中国人労働者を導入していた。
商店主や事業者・留学生は上海や広東からの者が多く市街地や中華街などの集住地に住み、労働者は浙江省が多く飯場や木賃宿(簡宿)に住んだ。
関東大震災時中国人虐殺の被害者には上記2種の属性の者が存在するのだが、少なくとも被害者名簿など記録が残っている中では、被害者数の内訳は大きく変わる。
労働者の被害が圧倒的に多い。というか殆どが労働者。
もちろん留学生等の被害は数字には出にくいし、被害者名簿は労働者が主体だった送還船の船内で作成されたという事もあるかもしれないが、いずれにせよ、圧倒的に労働者が多い。
関東大震災時中国人虐殺として、最も凄惨であり、最も組織的であり、最も犠牲者数が多いのは東京大島だが、ここ中国人労働者の集住地だった。
中国人労働者はどのように殺されたか、大島では多くの中国人老奏者が住む木賃宿は大きな被害を免れている。中国人労働者は宿舎に避難している。そこに自警団が、消防団が、日本人同業労働者が主体となった集団が、在郷軍人会が、それぞれ連携して、訪問する。「明日避難するから」「荷物まとめておいて」と。翌日連れ出して殺す。或いは直接宿舎を襲う。という事をやっている。この襲撃には軍も、警察も参加した形跡がある。もちろんこのようなものがすべてではない。三河島などでは、職場なのか宿舎なのか、中国人労働者が汽車に乗ってやって来る。汽車から降りて来る中国人労働者を集団で待ち構えて片っ端から鳶口で襲っていく。みたいな事もやっている。
元々経済状況悪化から外国人労働者たる中国人労働者排斥の声が高まり、また、中国人労働者の待遇改善運動も怒っており、労使ともに中国人労働者に対する敵視が高まっていた。
ここには関東大震災時朝鮮人虐殺とは違う性質がある。
彼らは災害を好機として、災害の混乱に乗じて、外国人労働者を実力をもって排除したのだから。
もちろん、朝鮮人と間違われて殺された者がいた事は間違いないだろう。皆無とは言わない。
だが、大きな割合を占める被害者がそうではない殺されかたをしている以上、そこを無視するわけにはいかないのではないかと思う。
そして、その点には関しては、まったくと言っていいほど振り返えられてはいない。
関東大震災時朝鮮人虐殺が振り返れているかどうかと言えば、それは当然良く言えば不十分だし、ほとんど振り返られていないともいえるだろうが、中国人虐殺はまったく振り返られていない。
これで良いワケがない。
と思うけどね。
関東大震災での虐殺被害者を追悼するとき、朝鮮人だけでなく、同じく意図的に殺害された属性である中国人にも言及してほしい。
朝鮮人の虐殺は必ず言及されるが、中国人も虐殺されたことはあまり言及されない。方言話者や聾唖者が「間違えられて」殺されたことも触れられるが、中国人は「意図的に」殺された属性の一つであることが史実として判明している
今井清一著の『関東大震災と中国人虐殺事件』では、当時外国であった中国籍の犠牲者を隠蔽した史実が詳細に明かされている(朝鮮は日韓併合で"国内"の扱いだった)。
犠牲者全員に言及することは難しい(SNSでは文字制限もあり尚のことだ)が、歴史を少しでも知ってくれる人が増えればと毎年思う。
今も手に入る様々な史料に虐殺の史実は残されており、存命の目撃者もいる。最も被害者数の多かった朝鮮人虐殺さえもなかったことにされてしまうのだから、中国人虐殺の史実は今後さらに消し去られてゆくのだろうと思うと、やりきれない。
どうか、一方の被害者を消し去ることのないよう「関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺」という書き方/言い方をしてほしい。国会質問や公文書でさえこの形で表記/言及されている。忘れないでほしい。
本は読まない、映画も見ない、歩く姿は百合の花。