魔女の救済編44話。表示がおかしいのは配信元が原因であるようだ。そのうち修正されるだろうし理由がはっきりしてよかった。
「獣」はじっくりやってるなという印象だったので、ここのところのスピード感ある展開のほうがむしろ好みだったが、「魔王」は謎の一部開示と次なる謎の提示が行われるエピソードなのでやっぱり今回に限ってはじっくりさが欲しかった。あまりにも惜しい。
原作は「個人の力ではなく組織の力を」とうたいつつも、最終的には一人の力に収束してしまう……というジレンマが描かれた。本作は意識的に「協力」を描いているので決着の行く末を見守りたい。同じになってもいいし、変わってもいい。本作はすでにその道筋を示している。
数日前に家族のスマートフォンがSIMカードを読み込まなくなったのはこれが原因みたいだな。SIMカードをわたしのスマートフォンに差し込んだら認識できたから、端末に不具合が発生したのかと思ったが。
https://mainichi.jp/articles/20241008/k00/00m/040/276000c
この期に及んで「冤罪ではない、証拠は捏造ではない、死刑が相当」と主張する人間が検察総長やってる国。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/359173
「聖闘士星矢」で、悪のサガの一派は「力こそ正義、勝ったものが正義」てなことを口にする(デスマスクは「時代によって正義はうつろうもの」だったっけ?)。子ども向けの作品に登場する悪役としてはおさだまりの台詞だが、悪のサガの「地上を数多の神々が狙っているのに、力のないアテナに任せておけない。強い力を持った私が地上を率いるべきだ」という主張と合わせて考えてみると、やはり力と正義を結びつけるのは傲岸なのだろう。悪のサガの主張は一理あるようにも見えて、力という転変するものと正義という不変のものを混同してしまっている。
人間は正義のために戦うことはできても正義そのものにはなれない。だからこそ「奇跡を起こす」力が備わっている、というのはどうか。
録画していた「マニアさんと歩く関西」見た。テレビ東京でやってた「名建築で昼食を」とほとんど同じ内容だが、あちらの「年配の男性が若い女性にうんちくを語る」形式でない一点で遥かにマシ。今回はビル・橋編とのことで、次はなにを取り上げるのだろう。
ドラマパートの、東京から転勤してきた主人公が職場の人間から「無理して大阪弁喋らんでええよ」と気を使いつつ言われるシーンは「そらアカンで……」と思った。
https://www.nhk.jp/p/ts/ZNYRP1ZPPV/
原作はサガを正義と、アニメはアイオロスを反逆者だと心から信じたからこそ「迷いなく」討ち、そしてその行動は誤りだったと紫龍との戦いを通じて悟るのが肝要なのであって、兄と慕う相手を誅する葛藤はドラマをブレさせるのではないか。
さておき、アイオロスへの敬慕を読み筋として入れるなら、アイオロスには血をわけた弟アイオリアが存在するのが重要だと思う。慕っていた兄の裏切りに対する怒りや悲しみ、愛する兄を自らの手で討った苦しみ(そして兄の正しさに涙する喜び)もアイオリアがいる以上シュラは他人として味合わねばならず、宙ぶらりんの状態に置かれる。なんとなれば、作品世界において兄弟愛、それも血統に準ずるものこそ至高であるのだから。
景気づけにややこしい兄弟の話でもするか。過日、インターネット見てたら「聖闘士星矢」アニメ放映時のムックに「シュラはアイオロスを兄のように慕っていた」旨の小説が掲載されていたと知った(しかも執筆はシリーズ構成の小山高生らしい)。順当にいけば確かにそういうのが出力されるだろう、とは思ったがそれだけだった。わたしならばテンション爆上がりになりそうな話であるのに。なんでだろう、と考えてみたら、わたしにとってシュラのドラマ性は「思考を硬直化させていた人間が、あるきっかけによりみずからの目にかかっていたまやかしを取り払う」点にあるのであって、敬慕はおおきな問題ではないからだ、と結論づけた。物堅い忠義者が、反逆者となった兄と慕う先輩を誅せねばならない。それは順当なシチュエーションではあるが、原作の「正義」、アニメの「忠義」いずれにしても余分なものになると思う。
すべての差別に反対します(しかし、いったいどうやって?)。