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アルデバランとシュラが「豪胆な武人」濃度100%であるのに、同じ角のある動物仲間のムウは濃度0%に見える。塩沢兼人の退廃的というか気だるげな声のせいかもしれない。ムウ本人はそういう人柄ではないはずだが。血気にはやる人間を制止することが多いのは、修復する技術が身についているから、つまり全体をよく観察し計画を立てて行動する性分というのはどうだろう。

シュラが星矢たちに宮を通過させたのは、原作では四人まとめて始末するため、アニメだとアテナ像が返り血で穢れることを嫌ったからであり、この点原作は実際的な人物、アニメは格式を重要視する人物だともとれる。

聖闘士星矢の登場人物は多種多彩でありながら、視点を変えると駆動する軸がほぼ同じの全員似たようなものに見える。ユニークだったのは冥闘士のカロンくらいか。黄金聖闘士の皆さんは濃淡こそあれ「豪胆な武人」に見え、わけてもアルデバランとシュラはその濃度が高い。が、前者は陽に、後者は陰だと感じる。なんでかと思ったがアルデバランは星矢たちを真っ向から待ち受ける一方、シュラはあえて通過させた背後から全員まとめて斬り捨てようとしたからだな。格下であっても一騎打ちに応じようとする側と、始末するという目的を優先する側。あと、教皇の正体を知ってるかどうかも影響するか。

コロナをほったらかして「都構想」と称する遊びにふける維新の会及び首長どもにも腹立たしい思いをさせられたが、能登の災害になにもせず選挙にふける自民党はまじで許せねえ。

数々の戦いがアテナ・城戸沙織への試練というのなら、なんの力もない赤子を、人を人とも思わない傲慢な少女を「アテナだと信じられるか」というのが聖闘士たちへの試練、とも読める。

デスマスクが正義とは時代によって変わるという持論を述べる際にナチスドイツや日本軍を例に出すの、今読むと「グエー」っていう感覚がまず来るんだが、描かれた当時は「このキャラの言っていることは間違いだ。正義が時代によって変わるわけないだろ」というニュアンスの台詞だったんだろうな。

急にアイオリアをどう鑑賞すればいいのかが掴めたのでこのところ延々と咀嚼している。いまの目で見るとアイオリアはとにかく立派な人物だ。というかもう、できすぎ。許せないこと、納得できないことがやまほどあるだろうに、腐らず誇り高く生きている。努力は兄の名に恥じぬため、なおかつ、その逆に兄の名を自分自身から雪ぐためのものでもある。兄の存在が与えた影響は陰に陽に大きかろうが振り回されず、彼自身に恥じない道を歩んでいる。さすが獅子座。これは兄も弟を誇りに思うだろう。まああのお兄ちゃんは「死ね馬鹿者!」とか言っちゃうんですが…。

魔女の救済編、読者の見えないところでいろいろあるんだろうとは察せられるが、卑下するなよ胸張ればいいよめっちゃ面白いんだからさ、というふうには思うな。

世間に対するなんやかんやの感情を、愚痴という形にしたのでいったん整理がついた。削除。

魔女の救済編44話。表示がおかしいのは配信元が原因であるようだ。そのうち修正されるだろうし理由がはっきりしてよかった。
「獣」はじっくりやってるなという印象だったので、ここのところのスピード感ある展開のほうがむしろ好みだったが、「魔王」は謎の一部開示と次なる謎の提示が行われるエピソードなのでやっぱり今回に限ってはじっくりさが欲しかった。あまりにも惜しい。
原作は「個人の力ではなく組織の力を」とうたいつつも、最終的には一人の力に収束してしまう……というジレンマが描かれた。本作は意識的に「協力」を描いているので決着の行く末を見守りたい。同じになってもいいし、変わってもいい。本作はすでにその道筋を示している。

数日前に家族のスマートフォンがSIMカードを読み込まなくなったのはこれが原因みたいだな。SIMカードをわたしのスマートフォンに差し込んだら認識できたから、端末に不具合が発生したのかと思ったが。
mainichi.jp/articles/20241008/

この期に及んで「冤罪ではない、証拠は捏造ではない、死刑が相当」と主張する人間が検察総長やってる国。
tokyo-np.co.jp/article/359173

読んじまったんですよの43話。
・前に、ラッツベインの目が青いのは魔王術使ってるからでは、と思ったがそうではないようだ。
・今回、第四部未読者振り落としてない?
・「王」ではなく「盟主」、花に変えるのはボリーさんではなくマルカジットがやったことに。この変化が意味するものは。
・マルカジット≒アザリー?

兄と再会を果たすも、生前の14歳のままなので年下になってしまった兄に困惑するアイオリア、くらいのことは考えるがこのお兄ちゃんは身長が188cmあってしかも屋良有作の声でしゃべるので年下感がまるでなかった。そもそも再会は一瞬であって困惑する暇もない(スピンオフではその暇があると聞く)。
アニメでアイオロスがアテナを救い逃亡する話の作画監督は只野和子だったからか、14歳の顔立ちに見える。

「聖闘士星矢」で、悪のサガの一派は「力こそ正義、勝ったものが正義」てなことを口にする(デスマスクは「時代によって正義はうつろうもの」だったっけ?)。子ども向けの作品に登場する悪役としてはおさだまりの台詞だが、悪のサガの「地上を数多の神々が狙っているのに、力のないアテナに任せておけない。強い力を持った私が地上を率いるべきだ」という主張と合わせて考えてみると、やはり力と正義を結びつけるのは傲岸なのだろう。悪のサガの主張は一理あるようにも見えて、力という転変するものと正義という不変のものを混同してしまっている。
人間は正義のために戦うことはできても正義そのものにはなれない。だからこそ「奇跡を起こす」力が備わっている、というのはどうか。

録画していた「マニアさんと歩く関西」見た。テレビ東京でやってた「名建築で昼食を」とほとんど同じ内容だが、あちらの「年配の男性が若い女性にうんちくを語る」形式でない一点で遥かにマシ。今回はビル・橋編とのことで、次はなにを取り上げるのだろう。
ドラマパートの、東京から転勤してきた主人公が職場の人間から「無理して大阪弁喋らんでええよ」と気を使いつつ言われるシーンは「そらアカンで……」と思った。
nhk.jp/p/ts/ZNYRP1ZPPV/

原作はサガを正義と、アニメはアイオロスを反逆者だと心から信じたからこそ「迷いなく」討ち、そしてその行動は誤りだったと紫龍との戦いを通じて悟るのが肝要なのであって、兄と慕う相手を誅する葛藤はドラマをブレさせるのではないか。
さておき、アイオロスへの敬慕を読み筋として入れるなら、アイオロスには血をわけた弟アイオリアが存在するのが重要だと思う。慕っていた兄の裏切りに対する怒りや悲しみ、愛する兄を自らの手で討った苦しみ(そして兄の正しさに涙する喜び)もアイオリアがいる以上シュラは他人として味合わねばならず、宙ぶらりんの状態に置かれる。なんとなれば、作品世界において兄弟愛、それも血統に準ずるものこそ至高であるのだから。

景気づけにややこしい兄弟の話でもするか。過日、インターネット見てたら「聖闘士星矢」アニメ放映時のムックに「シュラはアイオロスを兄のように慕っていた」旨の小説が掲載されていたと知った(しかも執筆はシリーズ構成の小山高生らしい)。順当にいけば確かにそういうのが出力されるだろう、とは思ったがそれだけだった。わたしならばテンション爆上がりになりそうな話であるのに。なんでだろう、と考えてみたら、わたしにとってシュラのドラマ性は「思考を硬直化させていた人間が、あるきっかけによりみずからの目にかかっていたまやかしを取り払う」点にあるのであって、敬慕はおおきな問題ではないからだ、と結論づけた。物堅い忠義者が、反逆者となった兄と慕う先輩を誅せねばならない。それは順当なシチュエーションではあるが、原作の「正義」、アニメの「忠義」いずれにしても余分なものになると思う。

花粉、気温の上下動、数々の自然の猛威が容赦なく人体を襲う!

連載が再開したので先読みしたよ「魔女の救済編」42話。……そういえば39、40話の感想いまだに言ってなかったな。
・出発時も思ったけど二人ともその服装でいいのか?特にオーフェンは衛生的に。
・レキの目は緑色のまま。
・ボリーさんご登場にかなりテンション上がった。

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