LISTEN というサービスを知った。音声配信ができて、フォローやコメントといったコミュニティ機能もある。なにより配信する内容が自動で文字起こしされるので検索性も低くない。
ツイートの代わりにこちらで、じっさいに部屋の片隅でぶつぶつ呟いてみることにする。
伝達のために書くというよりも、考えることと書くこととが分ちがたく結びついている。書いていく行為が残す文字列が、事後的に考えめいたものになっている。伝達のためにはこのような思考とほとんど統合で結ばれた文字列を整理整頓する必要がある。
僕にとってSNSとはものを考える場であって、情報を伝達する場と捉えることがどうしてもできない。だから文字をとりあえずてきとうに並べてみながら何かが考えられるのを待つという段階でそのまま投稿してしまう。
たとえばTwitterと呼ばれていたところが、そのような伝達されるには粗すぎる文字の散らかりを許容するものだと感じられた時期もあった。いまではすっかり広告の場で、考え終わったもの、思考が情報に整えられきったものたちだけがそれなりの顔をしていて、ラフな思考の痕みたいなものまで、整備済みの意味を励ます情報として取り込まれてしまう。情報と、それをいい加減に支える気分のようなものとしてだけ文字列が機能する場で、だらだらと散漫な文字の散らかしをすることはできない。
90年代はじめに生まれ、本店のある名古屋に育った者の実感として、ヴィレッジヴァンガードがなにかの対抗文化であったとすれば、それは戦中戦後の区画整理が過剰に成功してしまった名古屋という都市空間に対してのそれだったように思う。はじめからジェントリフィケーションの完了していたかのような90年代から00年代名古屋の無機質な不気味さについては矢部『夢みる名古屋』で活写されている。
モビリティの合理性に全振りし、まったくヒューマンスケールではない町において、あのような雑然とした遊歩の空間はそれだけで息のしやすさを差し出してくれた。
コメカブログを更新しました。
ヴィレッジヴァンガードと、アイロニーの問題
https://comeca.hatenadiary.org/entry/2024/01/28/190313
“ ルールというのは融通が利かなくて初めて意味をなす。杓子定規な手続きを頑なに守り通すことを「お役所仕事」と揶揄するけれども、臨機応変に対応してくれる柔軟な「お役所」ほど恐ろしいものはないと僕は思う。柔軟性に欠けた愚直さは、人びとを抑圧するためにあるのではなく、むしろ、恣意的に人々を支配しようとする権力の暴走を防ぐためにこそ必要だからだ。そう思っているからこそ、この数年の政治が目的達成のためには手続き上の瑕疵は問題にならないというモーレツ社員的な、およそ近代国家の洗練からはかけ離れた世界観で駆動しているようでひどく恐ろしい。ビジネスマン感覚の権力者にアジャイルでエンハンスされる世の中が、いいものになるとは思えない。自社や自部門の利益を最大限追求することや、ステークホルダーのニーズに素早く応えることは、それこそ私企業の仕事であって、政治家のやることではない。”
柿内正午『プルーストを読む生活』(H.A.B) p.475-476
かきないしょうご。会社員。文筆。■著書『プルーストを読む生活』(H.A.B) 『雑談・オブ・ザ・デッド』(ZINE)等■寄稿『文學界』他 ■Podcast「 ポイエティークRADIO 」毎週月曜配信中。 ■最高のアイコンは箕輪麻紀子さん作