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映画を見るとはどういうことか。映画の表層だけを注視するのでもない。かといってありもしない深さや奥行きに捉われもしない。ただ「自分にはこう見えた」というひとつの視点をそのままに差し出すこと。画面上から読み取れることだけを記述しているはずなのに、なぜか生じる盲目と明晰の差異が際立つ。

自分の立場からものを考えるとはどういうことか。それは単純に「弱さ」の側にも「強さ」の側にも居直れない、複数の論理や構造の上での自身の中途半端な現在地をなるべく手放さないという絶え間ない持続である。わかりやすいポジションなど、個人にはとれはしない。

何度も何度も同じ映画を繰り返し見て、自分が何を見逃し、どんなありもしないものを幻視してしまっているのかを確認する。そうして自分の現在地を測る。「親」を引き受けることにいまだ躊躇う大したことない個人のありよう。

誰もが「子供」の立場から立ち去りたがらず、ありもしない「親」をでっちあげては怒り、悲しみ、疲弊していく状況がある。自らの夾雑物やずるさや構造的優位や鈍感さを誤魔化さず、それでもなおよりマシな未来のために個人が「親」的な立場を引き受けるための準備運動。それが『『ベイブ論』です。

取扱書店など、詳細は下記リンクより。
akamimi.shop?p=3216

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本日発売の『文學界』9月号に「エッセイという演技」という文章を寄せています。エッセイに限らず表現全般への賛辞として「嘘がない」という文句が膾炙している状況への異議を申し立てています。「論考」と銘打たれていますが、僕はこのエッセイ自体も一種の演技として書きました。僕は嘘つきが好き。

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『会社員の哲学 増補版』が出ます。

「会社員」というありふれているようでどうにも特異な立場から、現代社会を描き直す。
無名で、凡庸な会社員が書く当事者研究であり、民族誌であり、思想書であり、哲学書。

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BOOKSライデン
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Bareishoten
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『ニッポンの書評』から『定本 批評メディア論』へと読み進めながら、改めていま文芸時評を行う意味について考えている。

時評や書評というのは元祖ファスト教養というか、切り抜き動画的な利便性を期待される商品であるということに最近になってようやく気がついた。

LISTEN というサービスを知った。音声配信ができて、フォローやコメントといったコミュニティ機能もある。なにより配信する内容が自動で文字起こしされるので検索性も低くない。

ツイートの代わりにこちらで、じっさいに部屋の片隅でぶつぶつ呟いてみることにする。

listen.style/p/kakinai

自分の吐く文字数の増加に春を感じ取る。

愚痴やぼやきに立場は関係ない。ひとりひとりのものだ。インターネットは暗い場所、ひとりひとりの場ではなくなったのかもしれない。でも、じゃあどこで。

なにかの次元での競争だとか自慢だとかポジション取りとかではなく、ただただ素朴に吐きたい弱音や泣き言というものがある。

書かないと考えられないから何かしら書きたいのだが、自分の場合、このような書く=考えるは、手元のメモのようなものではうまく動かず、多少それを外に出している感覚がないといけないらしい。誰ともなく誰かに向けてぶつくさ独り言を言っていたいという。迷惑な話だ。

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特に震災前のTwitter は「ここにある文字列のどれもこれも、別にあなたに話しかけてるわけじゃない」という場であり、エアリプへの不安は自意識過剰などといなされたものであるが、いつしか「あれもこれも、ほかならぬあなたに言ってるんだ」というようなことになってしまった。そういう雑な印象がある。

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伝達のために書くというよりも、考えることと書くこととが分ちがたく結びついている。書いていく行為が残す文字列が、事後的に考えめいたものになっている。伝達のためにはこのような思考とほとんど統合で結ばれた文字列を整理整頓する必要がある。

僕にとってSNSとはものを考える場であって、情報を伝達する場と捉えることがどうしてもできない。だから文字をとりあえずてきとうに並べてみながら何かが考えられるのを待つという段階でそのまま投稿してしまう。

たとえばTwitterと呼ばれていたところが、そのような伝達されるには粗すぎる文字の散らかりを許容するものだと感じられた時期もあった。いまではすっかり広告の場で、考え終わったもの、思考が情報に整えられきったものたちだけがそれなりの顔をしていて、ラフな思考の痕みたいなものまで、整備済みの意味を励ます情報として取り込まれてしまう。情報と、それをいい加減に支える気分のようなものとしてだけ文字列が機能する場で、だらだらと散漫な文字の散らかしをすることはできない。

コメカさんのブログで“当時VV的「サブカル」プレゼンテーションって既に、半笑いな感じで受け止められていたと思う。”という指摘が面白くて、実際VVにあるのってサブカルでもなくてそのモノマネなのだけど、そもそも名古屋市民だった僕にとって、都会の文化をモノマネしたいという欲望自体が新鮮だったのだと思う。

カルチャーとしてダサいか否かの手前に、カルチャーに参入したいという欲望を喚起するきっかけの有無があるというか。小中学生の僕は「半笑い」をベタに受け取ることでようやく何かを始めることができたのかもしれないなー、とか。

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ヴィレッジヴァンガードの話題に触れるたび、名古屋にいない人間に何がわかるってんだ、というような選民意識がつい頭をもたげてきてギョッとするから、これは自分にとって実存に関わるトピックなんだなと思う。

散漫に書き継いできて論点がぼやけてきたが、ある土地において特有の文脈のもと成立したものが、全国的に(それこそショッピングモールの分布と重なるようにして)広まっていく時点で失ったものというのはとても大きいはずだ。

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そう、名古屋ってそれ自体がジャスコやイオンみたいな町なのだ。ほかの地方都市もそうなのかもしれないけれど、それは知らないから語れない。子供の頃は無駄がなく効率的で、逸脱を許す余白がないような空気を町自体から感じていて、かなり嫌だった。ハイカルチャーとサブカルチャー、さらに下位区分における選民意識など、細かい差異は田舎の物知らぬガキには関係なくて、とにかくおおざっぱにいま生きるこの場所とは別の原理があると体現してくれていたのがヴィレッジヴァンガードだった。

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小中学生の僕は、とにかく整然とした町や学校の雰囲気が嫌すぎて、放課後はとにかく飛行機や車が天井から吊り下がる倉庫型の店舗に詰め込まれた情報の氾濫に身を浸すことでようやくほっとできたという記憶が強く根ざしている。

上京して下北沢の店にはじめて踏み入れたときは、「こんなのジャスコの中に入ってる小規模店でしかないじゃないか、これならよっぽど店の外のほうがごちゃついてて面白い」と失望したのもよく覚えてる。

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90年代はじめに生まれ、本店のある名古屋に育った者の実感として、ヴィレッジヴァンガードがなにかの対抗文化であったとすれば、それは戦中戦後の区画整理が過剰に成功してしまった名古屋という都市空間に対してのそれだったように思う。はじめからジェントリフィケーションの完了していたかのような90年代から00年代名古屋の無機質な不気味さについては矢部『夢みる名古屋』で活写されている。

モビリティの合理性に全振りし、まったくヒューマンスケールではない町において、あのような雑然とした遊歩の空間はそれだけで息のしやすさを差し出してくれた。

柿内正午 さんがブースト

コメカブログを更新しました。

ヴィレッジヴァンガードと、アイロニーの問題
comeca.hatenadiary.org/entry/2

エゴサしてたら人の日記に自分の日記が引用されていて、いいこと言うなあと思った。

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“ ルールというのは融通が利かなくて初めて意味をなす。杓子定規な手続きを頑なに守り通すことを「お役所仕事」と揶揄するけれども、臨機応変に対応してくれる柔軟な「お役所」ほど恐ろしいものはないと僕は思う。柔軟性に欠けた愚直さは、人びとを抑圧するためにあるのではなく、むしろ、恣意的に人々を支配しようとする権力の暴走を防ぐためにこそ必要だからだ。そう思っているからこそ、この数年の政治が目的達成のためには手続き上の瑕疵は問題にならないというモーレツ社員的な、およそ近代国家の洗練からはかけ離れた世界観で駆動しているようでひどく恐ろしい。ビジネスマン感覚の権力者にアジャイルでエンハンスされる世の中が、いいものになるとは思えない。自社や自部門の利益を最大限追求することや、ステークホルダーのニーズに素早く応えることは、それこそ私企業の仕事であって、政治家のやることではない。”
柿内正午『プルーストを読む生活』(H.A.B) p.475-476

悪くない生を実践するためには、時間よりも金銭による物質的基盤のほうが肝腎である。自由時間の豊富さよりも金で解決できる範囲を増やしておくほうが、好きなことをする時間の量の不足を補って余りある質をたっぷり確保できるというのは、加齢とともに体力や気力が一層弱ってきてから殊更に説得力を持ってきている。

プロレスについて考えていて、だんだんテレビに結実する視覚メディア勃興以前の娯楽・芸能の受容史へと関心が広がってきている。各地を周遊する見世物小屋からスクリーン、ブラウン管への移行のインパクトについて考えたいのだけれど、いまだいい本に辿り着く検索ワードがわからない。

19世紀の大陸におけるfolk wrestling のあり方から、1920年代の欧州諸国で盛り上がる興業志向によるキッチュ化への変遷。力道山の試合をラジオで聴取するという体験の当時における感覚が、テレビという空間に促されるキャラクターやストーリーの強調によってどう変容していったか。

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