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映画を見るとはどういうことか。映画の表層だけを注視するのでもない。かといってありもしない深さや奥行きに捉われもしない。ただ「自分にはこう見えた」というひとつの視点をそのままに差し出すこと。画面上から読み取れることだけを記述しているはずなのに、なぜか生じる盲目と明晰の差異が際立つ。

自分の立場からものを考えるとはどういうことか。それは単純に「弱さ」の側にも「強さ」の側にも居直れない、複数の論理や構造の上での自身の中途半端な現在地をなるべく手放さないという絶え間ない持続である。わかりやすいポジションなど、個人にはとれはしない。

何度も何度も同じ映画を繰り返し見て、自分が何を見逃し、どんなありもしないものを幻視してしまっているのかを確認する。そうして自分の現在地を測る。「親」を引き受けることにいまだ躊躇う大したことない個人のありよう。

誰もが「子供」の立場から立ち去りたがらず、ありもしない「親」をでっちあげては怒り、悲しみ、疲弊していく状況がある。自らの夾雑物やずるさや構造的優位や鈍感さを誤魔化さず、それでもなおよりマシな未来のために個人が「親」的な立場を引き受けるための準備運動。それが『『ベイブ論』です。

取扱書店など、詳細は下記リンクより。
akamimi.shop?p=3216

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本日発売の『文學界』9月号に「エッセイという演技」という文章を寄せています。エッセイに限らず表現全般への賛辞として「嘘がない」という文句が膾炙している状況への異議を申し立てています。「論考」と銘打たれていますが、僕はこのエッセイ自体も一種の演技として書きました。僕は嘘つきが好き。

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『会社員の哲学 増補版』が出ます。

「会社員」というありふれているようでどうにも特異な立場から、現代社会を描き直す。
無名で、凡庸な会社員が書く当事者研究であり、民族誌であり、思想書であり、哲学書。

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柿内正午 さんがブースト

例えば1980〜90年代ぐらいまでは、漫画本やロックのレコードを自主制作&自主流通するようなことも、大資本に占有されたインフラ状況へのカウンターパンチになり得た。しかしプラットフォーム資本主義以降は、インディレベルで既存インフラに対するカウンターを仕掛けることが、とても難しい。

どんなアクションも、大資本が用意するプラットフォーム上のいち商品としてしか成立し得ない。インフラレベルでカウンターを仕掛けること・既存状況を否定することの難易度が、果てしなく上がっていく。表現のレベルでカウンターであっても、インフラのレベルでは大資本の論理を飲むしかなくなっている。

スケールすることこそが正義という感覚は、ビジネスのレベルだけでなく文化表現のレベルにおいても、この10年ほどで深く再強化されたと思う。自立性や個人主義的思考は、どんどん蔑ろにされていっている。

昨晩はメリーのライブを見ていて、ああ、BUCK-TICKの子だ、とステージの愉快さに反して感傷的になってしまっていたから、余計に「冥王星で死ね」で大笑いできたことが嬉しい。

「冥王星で死ね」を聴いてげらげら笑って、ようやくBUCK-TICKを聴き返せるようになってきた。

ずっとよくわからないまま共感を示すふりをして乗り切ってきたんですけど、いよいよわからなくなってきた。「何者かになる」ってなんだ?

なれると何が嬉しくて、なれないと何がよくないのか。なるならないの成否はどのように判断できるのか。

きょうのLife、いつも以上に心がけるべきこと。「実感の伴ってないきれいごとをいわない」、「背伸びしないで、考えの浅さやなさをこそ出す」。

書くと送るのあいだに、まったく別種のコストを挟むことの大事さ。

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授業中に机を行き来する手紙と、市場に流通する活字とが液晶上という同じところで巡っているのがよくないのだ。私的な発信は手書きで手渡し。これに限る。少しでも公的な性格を持たせたいのならば、ガリ版でもいいから印刷すべき。紙のよさはそのような文字の流通するレイヤーがあからさまであるところであろう。

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SNSによって「いまこのわたしが何をしているか」を簡便かつ気軽に擬似的な活字として発信できるようになったということの途方もなさを思う。

大半の生活者にとって文字は親密圏内での具体的な人間関係のなかで流通する道具であって、文字を外在する物質のようなものとして知覚する必要がない。書かれたものがそのまま自分ということであまり問題がない。

現在の素朴な活字制作者の多くは活字の物質性に頓着せず、ベタに自身の実存の重ねたものとして感覚する。そのような事態の進行が、書かれたものと文書制作者とを同一視するような、(ダメな)読解を促進している。

不特定多数へ向けて何らかの効果を及ぼすことを目指して文字列を構築する。そのような意識をもって制作された文章を、友だちからの手紙と同じ位相で受信してしまうことで生じた情動への補償を書き手の側に求めるというのは、不毛でしかないはずなのだけれど。誰もお前に向けてなど書いちゃいない。

あるいは、親密圏でだけ通用すれば用の足りる文字列を、厳密な読解対象として俎上に載せてあげつらうのもまた外野からの鬱陶しいお節介以外の何ものでもないのだろう。

できることならお客じゃなくてホストの側にいたいというのが、自分の行動原理なような気がしてきた。

マスクを忘れて気がついたが、街というのはこんなに臭うのだな。

まじで意味がわからん。死とかいうやつ。

惚れこんだパフォーマーの死に抱く悲しさは、とにかくこの世界からひとつの大きな光源が失われたという憤懣といったほうが近い気もして、故人として悼むとか、そういう感じではないのかもしれない。とにかく、あの素晴らしい体を返して欲しい。その一心だ。

誰かの生を、人間関係など文脈とは関係なしに、即座に肯定しうるような光は舞台上にしかない。だからこそいっときの輝きを求めて劇場に足を運ぶのだし、そこにまた素晴らしいパフォーマンスが現れるとするならば、それは元気に生きてる体があってこそだ。

すぐれたパフォーマンスというのは、パフォーマー個人の私生活やら背景やら思想やらとまったく無関係に、ただ舞台上に現前するその瞬間瞬間の煌めきが、そのまま掛け値なく人が謎にこの世に受けてしまった生を肯定してしまうほどの光度をもち、一度でもそれを浴びてしまったら、照らされてしまったと思うほかない。

新盆か。姿を見てしまうとまだまだぜんぜん駄目だな。驚くほど動揺している。

あの日横浜で立ち会った三曲のパフォーマンスについて、すこしでも美化するようなことを言い始めたら全力で殴ってくれと思っている。

いまだ「絶界」だけは泣かずに聴けない。

「バズりたい」みたいな欲、ピンとこないままなのだけれど、「モテたい」という欲望の亜種なのだと考えれば、よくわからなさの質が見えてくるような気がする。あるいは「稼ぎたい」。
具体的な個人との関係や、欲しいものを直接欲望するのではなく、それらを媒介するものの方を目的に据えてしまう。具体的な質を備えたものと違って、抽象化された量は無際限だから、多ければ多いほどよいような気になってくる。

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