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Now Playing: "Believe E.S.P." from "Friend Opportunity" (Deerhoof)

友達の家に遊びに行って、みんなで近所のスーパーにお酒とかおつまみ買いに出かけるみたいなこと、したい。

柿内正午 さんがブースト

8/27(日)夜、『文學界』9月号のエッセイ特集にまつわる座談会が緊急開催されます。論考を寄稿しているライターの宮崎智之さん、『文學界』編集長の浅井茉莉子さんと共にエッセイの現在地を探ります。

来週末といきなりの開催ですが、会場参加も配信もアーカイブもありますので、ぜひぜひこの機会に一緒に『文學界2023年9月号』の特集を読み込んでみませんか。今号からは電子版もあるので、イベントチケットと一緒にいますぐ買って読むこともできます。ぜひに!

来店予約:unite-books.shop/items/64df2ac

配信予約:unite-books.shop/items/64df29e

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真実らしさに惹かれるとき、「らしさ」の演技性ではなく、「真実」のほうに重きを置いてしまうというのは非常に危険な錯誤であるとすら思う。真実を求めれば求めるほど、国家も資本主義も自我も、すべてある時代や環境によって構築された価値体系を前提としたひとつのフィクションであることへの盲目がいっそう深く根付いてしまう。これしかないという感覚は、息をしづらくする。楽しくやっていくのに必要なのは、これ以外もある、という予感だ。

よき噓つきは、凝り固まったものの見方を誇張的に演技することで「らしさ」を成立させる条件を明らかにしたり、いま主流である真実らしさとは別様のホラを吹くことで「真実」のありようを複数化して相対的な価値判断への道をひらく。ああ、こうしなきゃいけないわけじゃなくて、ああいうのでもいいんだ、と肩の力が抜けるような嘘。そういうのが好き。

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子供のころに眺めていた『不思議どっとテレビ。これマジ⁉︎』や『奇跡体験!アンビリーバボー』、夏の心霊特番のようなオカルト番組が本当に好きで、でもいつからか「嘘じゃん」「やらせかよ」みたいな言及をワイプで抜かれたタレント自身がコメントするようなバカげた事態が進行し急速につまらなくなった。これはエッセイの裏にほんとうの経験を読み取ってしまう読者の問題と裏表だ。嘘かまことかを軸にして面白くなることはない。明らかな嘘に「でも、もしかしたら……?」とこちらの認識を揺らがせる説得力を持たせる技こそが魅力であったのに!オカルト番組は真実らしさの演技をやめた途端に、なにもなくなってしまう。誰も真実などという中身は求めていなかった。喚起力に富んだパッケージに惹かれていた。内容ではなく、身振りのほうにこそ果実があったのだ。

エッセイにせよ私小説にせよ、あるいはミュージシャンや俳優なんかもそうだ。パフォーマーのパフォーマンスは一種の方便つまり演技である。こう言うと、「人を嘘つき呼ばわりするなんて」みたいな、どちらかというとネガティブな指摘であるという印象をもたれがちのようだ。僕は真実よりも「らしさ」のほうが大事だと思っているので、演技にこそ惚れ惚れする。「その嘘のつきかたがすてき!」「鮮やかに騙されてきもちいい!」みたいな。

これからのエッセイ・随筆シーンを考える起点のひとつになるであろう『文學界2023年9月号』。きょうから電子版も販売開始です! 文芸誌デビューにももってこいの内容でもあるので、この機会にぜひ〜
bunshun.co.jp/business/bungaku

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小学生のころ倉庫型の本店でヴィレッジヴァンガードの洗礼を受けた者として、その後おなじヴィレヴァンをアピタやジャスコのなかに見つけたときの興奮を忘れられない。

表に出てこなさそうな猥雑さが、ファミリーな蛍光灯に馴染みきることもなくなんとなくの人懐こさを放っている、あの感じ。僕もああいう騙し方をしたい。

ポップでいたいが、性根が全然ポップじゃない。ポップって何よ。

当然この「よしあし」の判断じたいも、依拠しうる価値体系がいくつもあり、安易な能力主義に流れていくことを警戒しなければいけないが、「よしあし」の相対化に心を砕くあまり、行為の水準で誰よりも「よしあし」の区分を強めるようなことになっていないか、ということにこそ気をつけたくなってきた。

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そんなことを考えつつ、いまの関心はすこし別のことで、もしかして「僕って頭いいのかも」ということだ。

どういうことかというと、僕はこれまで(いまでも)自分のことを「この世の誰よりも頭よくない」と思っていて、だからこそ他人の合理性につよい関心がある。人と話したり本を読んだりして、誰かの合理性を支える価値体系のようすを知るたびに「すごい!」と面白がっていた。

でもこの調子で面白がることじたい、かなり「頭よいこと」なんじゃないか? その「頭よさ」に無自覚なまま振る舞っていると、かなり有害ななにものかになるな、という感覚がさいきんはある。

貧乏な幼少期を送った成り上がり者が新自由主義的な価値観を素朴に内面化してしまうように、「頭よくない」という感覚を持ちすぎるとほかの「頭よくなさ」に対する不寛容が根付いてしまうのではないか? 俺はちゃんとやってるからこの程度の「よくなさ」で済んでるのに、誰々ときたら、みたいな振る舞いをなんも考えずやらかしてしまってないか?

まだうまく言えないけど、自分は「頭よい」ものとして書いたり喋ったりするほうがいい場面もあるかもしれないなと思い始めたという話だ。

「論敵」みたいなものを話の通じないバカだと思ってしまうとどうしようもなくて、相手の外界をとらえる目のありようや判断の合理性を担保する基準みたいなものを捉えないことにはお互いに議論したつもりでバカバカ言い合ってるだけになる。

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ゴシップしか読んでなさそうなおっさんが酒臭い大声でのたまう人生訓に、これまでの哲学的論争を要約したような含蓄が含まれていて不覚にも打たれてしまう、みたいな経験にこそ僕は関心があって、そういう大半の人たちの文書化されにくい合理性をこそ読みたい。

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たとえば構造主義と実存主義の考え方を知ったとき、これはたしかに理屈としては対立しているが、生活の実相においてはどちらもよくよく説明のつくすごいツールだなあと思った。

ポストモダンなんかもべつに現代ならではの思想なわけではなくて、これまで暗黙知として機能してきたような、子どもが大人の都合から上手に漏れ出ていくその機制を理論化したものに感じられる。(そういう目で見てみると文明史というのは幼稚さの領域の拡大とも見えてくる)

ひとつの見立てだけでは取りこぼすものをきちんと掴むための別の見立てがあるというだけで、ふだんの会話を「どっちの見立てがイケてるか」みたいな殲滅戦にする必要はないのだが、文字でのコミュニケーションは意識しないとそうなりがちで、なぜなら特に書き言葉の語彙というのは当人の依拠する見立てに非常に規定されるものだからだ。

書かれたものを読むとき「この書き手はどの見立て=合理性を判断するための体系を使っているんだ?」というのを問わずに自分の側の見立てだけを使うと、あまりに不合理に感じられてそもそも冷静に読めない、ということになりかねない。

ここにきて、のちの高度成長によっていちど目を逸らすことができてしまった戦争というものの重みを改めて文学が引き受ける段になったような、そんな感覚を強くもった。

めちゃ売れてる本であるし、こんなこと、すでに百億回くらい言われてることなんだろうけれど。

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炎上のきっかけとなった暴力は、ファンたちの結束を強めこそすれ、暴力に至る構造の不当さは追及されることも反省されることもないままになあなあにされる。あとにはただ「背骨」を失った実存の不安だけが解消されないままに残る。

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「推す」という現代的な偶像崇拝を、こうもあからさまに天皇制の似姿として描くこと。偶像はみずからふるった暴力によって燃え上がり、一時はそれすらもいっそうの高揚を引き起こす契機となるがついには敗け、ただの人になることを宣言するに至る。

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今日という日に、たまたま図書館で順番が回ってきたからという理由で『推し、燃ゆ』を読んだらこれは敗戦の小説ではないかと驚いた。

『ハンチバック』と『推し、燃ゆ』を並べて読んで考え込んでいる。

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