たとえば構造主義と実存主義の考え方を知ったとき、これはたしかに理屈としては対立しているが、生活の実相においてはどちらもよくよく説明のつくすごいツールだなあと思った。

ポストモダンなんかもべつに現代ならではの思想なわけではなくて、これまで暗黙知として機能してきたような、子どもが大人の都合から上手に漏れ出ていくその機制を理論化したものに感じられる。(そういう目で見てみると文明史というのは幼稚さの領域の拡大とも見えてくる)

ひとつの見立てだけでは取りこぼすものをきちんと掴むための別の見立てがあるというだけで、ふだんの会話を「どっちの見立てがイケてるか」みたいな殲滅戦にする必要はないのだが、文字でのコミュニケーションは意識しないとそうなりがちで、なぜなら特に書き言葉の語彙というのは当人の依拠する見立てに非常に規定されるものだからだ。

書かれたものを読むとき「この書き手はどの見立て=合理性を判断するための体系を使っているんだ?」というのを問わずに自分の側の見立てだけを使うと、あまりに不合理に感じられてそもそも冷静に読めない、ということになりかねない。

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ゴシップしか読んでなさそうなおっさんが酒臭い大声でのたまう人生訓に、これまでの哲学的論争を要約したような含蓄が含まれていて不覚にも打たれてしまう、みたいな経験にこそ僕は関心があって、そういう大半の人たちの文書化されにくい合理性をこそ読みたい。

「論敵」みたいなものを話の通じないバカだと思ってしまうとどうしようもなくて、相手の外界をとらえる目のありようや判断の合理性を担保する基準みたいなものを捉えないことにはお互いに議論したつもりでバカバカ言い合ってるだけになる。

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