子供のころに眺めていた『不思議どっとテレビ。これマジ⁉︎』や『奇跡体験!アンビリーバボー』、夏の心霊特番のようなオカルト番組が本当に好きで、でもいつからか「嘘じゃん」「やらせかよ」みたいな言及をワイプで抜かれたタレント自身がコメントするようなバカげた事態が進行し急速につまらなくなった。これはエッセイの裏にほんとうの経験を読み取ってしまう読者の問題と裏表だ。嘘かまことかを軸にして面白くなることはない。明らかな嘘に「でも、もしかしたら……?」とこちらの認識を揺らがせる説得力を持たせる技こそが魅力であったのに!オカルト番組は真実らしさの演技をやめた途端に、なにもなくなってしまう。誰も真実などという中身は求めていなかった。喚起力に富んだパッケージに惹かれていた。内容ではなく、身振りのほうにこそ果実があったのだ。
エッセイにせよ私小説にせよ、あるいはミュージシャンや俳優なんかもそうだ。パフォーマーのパフォーマンスは一種の方便つまり演技である。こう言うと、「人を嘘つき呼ばわりするなんて」みたいな、どちらかというとネガティブな指摘であるという印象をもたれがちのようだ。僕は真実よりも「らしさ」のほうが大事だと思っているので、演技にこそ惚れ惚れする。「その嘘のつきかたがすてき!」「鮮やかに騙されてきもちいい!」みたいな。
真実らしさに惹かれるとき、「らしさ」の演技性ではなく、「真実」のほうに重きを置いてしまうというのは非常に危険な錯誤であるとすら思う。真実を求めれば求めるほど、国家も資本主義も自我も、すべてある時代や環境によって構築された価値体系を前提としたひとつのフィクションであることへの盲目がいっそう深く根付いてしまう。これしかないという感覚は、息をしづらくする。楽しくやっていくのに必要なのは、これ以外もある、という予感だ。
よき噓つきは、凝り固まったものの見方を誇張的に演技することで「らしさ」を成立させる条件を明らかにしたり、いま主流である真実らしさとは別様のホラを吹くことで「真実」のありようを複数化して相対的な価値判断への道をひらく。ああ、こうしなきゃいけないわけじゃなくて、ああいうのでもいいんだ、と肩の力が抜けるような嘘。そういうのが好き。