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運動しようという意思なしになかば強制するように体を動かさねばどうにもならないわけだが、そんなふうに運動を習慣づけられているのならそもそも体は冷えない。

ぽかぽかしていれば気持ちも明るいからもっと体を動かそうと思う。そうやっていいときはどんどんポジティブなフィードバックループが成立するが、いきなり寒くなってしまうのだから不意打ちで落ち込んでしまうとかんたんなことでは立ち直れなおほど負の循環に陥ってしまう。

元気な時はそりゃ体を動かしていたほうが気分もいいなあこれからもそうしよう、そうしないのは愚かだと考えるかもしれないがそりゃ調子のいいやつの言い分で、こちらはすでに調子が悪いのだから、そこからの立ち直り方を知りたいわけだが落ち込んでいるときは立ち直りたいという意思すらも挫けているのだから知っていたところで実行できるわけではない。愚かだからではなく寒いからどうにもならなくなっている。暖かいところから知ったような口をきくなと言ってやりたくなる。

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冷え込んできてからこっちずっと落ち込んでいたのだけれど、意を決してストレッチとダンベルと散歩を行ったところめきめき気分が上がって、自我なんてものは薬までいかずとも血流や体温によってどうとでも左右されてしまうものなのだという気持ちを新たにした。

さっきまで簡単な梱包作業やメールの返信すら億劫で、もうなにもしたくない、なにも楽しくないし感じない、とにかく指を動かすのもだるい、などと思っていたのにこれらの停滞は自分の自由意志などですらなく、ただただ体が冷えていて凝り固まっていたからでしかなかったのである。

ここで不合理なのは、まず体を温めなくてはいけないからとかんたんな運動を行うという発想自体、表面上じしんの意思による決定がなされなければ実行されないということで、こちらの体は冷え切っているのだからもう動きたくなんかないわけだ。そしてこの動きたくないという意思もまた、体が冷えているから起こる。動けなさを解消するには体を動かす他なく、しかし体が冷え切っているから体の一部である脳も体を動かしたくないという意思を擬制するわけで、運動しなければ解決できない不調そのものが運動したくないという意思を連れてきてしまう、それを打破するためには運動しようという意思なしになかば強制するように体を動かさねばどうにもならない。

柿内正午 さんがブースト

『『ベイブ』論』読了。同じ映画を見ても感想は人それぞれだけれど、そもそも認知が違うみたいなところもあるよね、みたいな。面白かった。あと絵がお洒落✨

先日の で内沼晋太郎さんが「ZINEやリトルプレスの作家は趣味の延長線上という意識が強いが、書店側は仕事なわけで」というような発言をされていて、これは一面ではその通りであるが、本屋側がはじめから「どうせただの遊びで、お客さん気分なんでしょ」という構えでの対応で、非常さみしい気持ちになることもたまにたまにだがある。

僕はどれだけ趣味的であろうとも健全にどちらも儲けるような活動としてやっていきたいので、「商売のつもりではない」という予断で警戒されてしまい建設的なやりとりにならないのはいやである。

損するかもしれないというリスクをお互いの領分で引き受けて、得できるときはちゃんと分け合う。それが健全な商売。個人での活動の場合、リスクをとるのはとっても不安で怖いかもしれないけれど、一方にリスクだけ担ってもらうというのは虫がよすぎるし、「商売じゃないから」は言い訳にならない。

でもなあ、これは個人作家全体の商売マインドやセンスをどう上げていくかという問題とセットであり、実際ただ楽しければいいだけで金勘定はなんかやだ、という層も多いとも思うから、どうしたらいいのかはさっぱりわからない。

零細個人出版をやっている人とおしゃべりしたいなと思う。

生活のなかで個人としてリスクを取る機会ってじつはなかなかないことのような気もして、本をつくってさらに増刷まで決断するというのは、最悪というわけではない現状に甘んじないで、もっとよくするために試行する練習になるのではないか。

暮らしを立てられるほどの稼ぎではない営みとして何かをつくるとき、その人がどう在庫と付き合っていくのか、その各々のスタンスについて聞いてみたい。覚悟というほど大したことでない、楽しさと軽さを維持できる塩梅の探りかたについて。

個人制作は趣味に近い営みかもしれないが、書店とやりとりするのであればそれはどれだけ乏しい稼ぎであれこちらも仕事であるというシリアスな自覚は必要だ。しかし、ほっとくとすぐにシリアスになりすぎてしまい、そうなると楽しくなくなる。「ここまでは軽やかにやれる」という範囲をどう見極めるか。

そういう話をきいてみたい。

自分の作ったものが受け入れてもらえたらとても嬉しいけれど、たとえうまくいかなくても「受け入れてくれない人たちが悪い、僕を受け入れないこんな世はクソ」みたいなルサンチマンがあんまりよくわかんないの、そもそも素朴に世と和解できる気がまったくしないからかもしれない。

文化系トークラジオLife のポッドキャストにて、今週土曜の文学フリマ東京の注目本についておしゃべりしてます。

僕は十七時退勤社、代わりに読む人、鴨川エッチ研究会の3ブースをご紹介。おふたりの注目本もたいへん面白そうで、おすすめです。

open.spotify.com/episode/6tHUI

『『ベイブ』論、あるいは「父」についての序論』お取扱店舗一覧

■関東
 本屋lighthouse
 SUNNY BOY BOOKS
 H.A.B
 BOOKSHOP TRAVELLER

■中部
 ON READING

■関西
 清風堂書店梅田本店
 toi books
 スタンダードブックストア

■九州
 ブックバーひつじが
 本のあるところajiro

■沖縄
 本と商い、ある日、

映画を見るとはどういうことか。映画の表層だけを注視するのでもない。かといってありもしない深さや奥行きに捉われもしない。ただ「自分にはこう見えた」というひとつの視点をそのままに差し出すこと。画面上から読み取れることだけを記述しているはずなのに、なぜか生じる盲目と明晰の差異が際立つ。

自分の立場からものを考えるとはどういうことか。それは単純に「弱さ」の側にも「強さ」の側にも居直れない、複数の論理や構造の上での自身の中途半端な現在地をなるべく手放さないという絶え間ない持続である。わかりやすいポジションなど、個人にはとれはしない。

何度も何度も同じ映画を繰り返し見て、自分が何を見逃し、どんなありもしないものを幻視してしまっているのかを確認する。そうして自分の現在地を測る。「親」を引き受けることにいまだ躊躇う大したことない個人のありよう。

誰もが「子供」の立場から立ち去りたがらず、ありもしない「親」をでっちあげては怒り、悲しみ、疲弊していく状況がある。自らの夾雑物やずるさや構造的優位や鈍感さを誤魔化さず、それでもなおよりマシな未来のために個人が「親」的な立場を引き受けるための準備運動。それが『『ベイブ論』です。

取扱書店など、詳細は下記リンクより。
akamimi.shop?p=3216

真木悠介『自我の起源』のあとがきはほんとうにいいな。これまでに誦じられそうなくらい繰り返し読んだ。なんでもかんでもすぐ忘れるから誦じられないけれど。

「この仕事の中で問おうとしたことは、とても単純なことである。ぼくたちの「自分」とは何か。人間というかたちをとって生きている年月の間、どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか。他者やあらゆるものたちと歓びを共振して生きることができるか。そういう単純な直接的な問いだけにこの仕事は照準している。
時代の商品としての言説の様々なる意匠の向こうに、ほんとうに切実な問いと、根柢をめざす思考と、地についた方法とだけを求める反時代の精神たちに、わたしはことばを届けたい。
虚構の経済は崩壊したといわれるけれども、虚構の言説は未だ崩壊していない。だからこの種子は逆風の中に播かれる。アクチュアルなもの、リアルなもの、実質的なものがまっすぐに語り交わされる時代を準備する世代たちの内に、青青とした思考の芽を点火することだけを願って、わたしは分類の仕様のない書物を世界のうちに放ちたい。 」
真木悠介『自我の起源』(岩波現代文庫) p.207」

地球という有限性を露わにするほどにまで開発が尽くされた現代、「合理的」に資源を収奪し、領土を拡張していくという「征服」はもはや肯定できるものではなく、「自由」と「平等」の領域を拡大させていくような「共生」の理路こそが求められている。というかそういう方向に現代は向かってる。

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見田宗介の言葉を借りれば、「近代的合理性」とは生活を生産に全面的に奉仕させる「生の手段化」の謂である。

この「生の手段化」を正当化する近代の理念とは「自由」と「平等」であり、じっさい「近代的合理性」が実現してきた経済成長はいくらかの人々の「自由」と「平等」の領域を拡充したことはまちがいないが、「合理化」のプロセスの内外において疎外され、「生の手段化」を強いられてきた者たちにとっては「自由」や「平等」を抑圧するものでしかない。

『『ベイブ』論、あるいは父についての序論』
判型:新書判(縦173mm×横105mm)
88ページ、厚み約5.8mm

映画『ベイブ』を丹念に見つめることで、「現代における父性とはどのようなものであるべきか」という大きな問いに挑む。

10月22日(日)文学フリマ福岡にて初売り。以後、順次展開予定です。

けっして余裕はないが構造的「強者」でもあるものどもが、すこしでもマシな未来のためにどう日々を他人たちと暮らしていくべきか。そのような問いを共有しているという意味で、本書は『会社員の哲学』の精神的続編でもあります。

「〈大衆が消費することは、それが資本の増殖過程の一環をなすからといって、それが大衆自身のよろこびであることに変わりはない〉」
定本見田宗介著作集1『現代社会の理論』(岩波書店)p.38

「必要を根拠とすることのできないものはより美しくなければならない。効用を根拠とすることのできないものはより魅惑的でなければならない。」
定本見田宗介著作集1『現代社会の理論』(岩波書店)p.37

幼少期に自身を魅了した映画を、大人になったいま観返すこと。そのなかで得た直観は、ここにありえたかもしれない現在の「父」の姿が予感されている、というものだった。いまだこの国に蔓延る家父長制の粉砕を夢見るとき、自身をフェミニストと自認しすこしでもマシな実践を模索するとき、「父」なるものの有害さばかりが意識され、「男らしさ」をそのまま悪なるものと断じてしまいたくなる。しかし現状を確認したときにすぐさま気がつくのは、打倒すべき「父」なるものはすでに失効しており、ただ構造としての家父長制だけが残置されているということである。産湯と共に赤子を流すというが、むしろ「よき父」という赤子だけが流されてしまい、居残った臭い産湯が「男」の本質であるかのように捉えられているのが現在の状況ではないだろうか。(…)

では、「父」においてよきものとは何か。僕はこの問いを前に長年立ちすくんでいた。そのようなものが果たしてあるだろうか。(…)そんななか、『ベイブ』を再発見したのである。当然、飛躍である。本稿は、映画論を方便としたごきげんな男性論の試みでもある。

(「はじめに」より)

Now Playing: "Krumville" from "Again" (ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー)

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