そんなことを考えつつ、いまの関心はすこし別のことで、もしかして「僕って頭いいのかも」ということだ。
どういうことかというと、僕はこれまで(いまでも)自分のことを「この世の誰よりも頭よくない」と思っていて、だからこそ他人の合理性につよい関心がある。人と話したり本を読んだりして、誰かの合理性を支える価値体系のようすを知るたびに「すごい!」と面白がっていた。
でもこの調子で面白がることじたい、かなり「頭よいこと」なんじゃないか? その「頭よさ」に無自覚なまま振る舞っていると、かなり有害ななにものかになるな、という感覚がさいきんはある。
貧乏な幼少期を送った成り上がり者が新自由主義的な価値観を素朴に内面化してしまうように、「頭よくない」という感覚を持ちすぎるとほかの「頭よくなさ」に対する不寛容が根付いてしまうのではないか? 俺はちゃんとやってるからこの程度の「よくなさ」で済んでるのに、誰々ときたら、みたいな振る舞いをなんも考えずやらかしてしまってないか?
まだうまく言えないけど、自分は「頭よい」ものとして書いたり喋ったりするほうがいい場面もあるかもしれないなと思い始めたという話だ。
当然この「よしあし」の判断じたいも、依拠しうる価値体系がいくつもあり、安易な能力主義に流れていくことを警戒しなければいけないが、「よしあし」の相対化に心を砕くあまり、行為の水準で誰よりも「よしあし」の区分を強めるようなことになっていないか、ということにこそ気をつけたくなってきた。