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あらゆる断言は明示されない(知らんけど)に支えられている。

「知らんけど」と発話と発話主体のあいだにあるとされる蝶番を軽々と切断する態度。

「仕事」って誰かへの親切のことだから、なんかもう余裕がある人だけが仕事するみたいな世界になってくれよと思う。

生活の必要に追われて従事せざるをえない「労働」に毎日確実に尊厳を削り取られていく事態を「仕事だから」で見過ごす欺瞞、まじでムカつく。

「いいじゃん、減るもんじゃないし」と気前よく親切を振る舞うためには、親切に必要な力が取るに足らないものであると思える程度の余裕が不可欠。

多くの人が疲れてて、お金もなくて、余裕が確実に削られていくと、どんどん目先の必要の比重が大きくなって、荒んでく。物心がついてからの20年間、そういう状況が進行していくのをずっと見せつけられてる気がしている。

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「誰からも大事にされてないなー」みたいな環境のなかでくたびれきって、体力や気力に余裕がないとき、他人へのちょっとした親切って明確に「減るもの」になる。たとえば電車の席を譲るとか、次の人のためにトイレットペーパーを替えておくとか、共用スペースの掃除とか、誰かのことを褒めるとか。
それらの行為が必要とする体力や気力ってほんのわずかなんだけれど、力の残高がジリ貧だとそのわずかすら勿体なく感じられて、使ったぶんだけ即時に見返りがあるような超短期的な利益に繋がる行為しかできなくなる。たとえば人を押し退けて席に座る、トイレットペーパーを使い尽くして放っておく、共用スペースを私物化する、誰かのことをやっかみ腐す。もちろんこれらの行為はほんの少し長い目で見れば自他ともにより貧しくなっていく悪手であるとわかりきっている。それでも、「いままさにゼロになりかけてる自分の気力体力をなんとか保ちたい」という切実な必要にとらえられているとき、ちょっとした親切すら「贅沢」になってしまう。

『コーポ・ア・コーポ』、最新話もものすごいな。

早起き予定の日は緊張して目覚ましの設定の一時間前にはバチッッと目が冴えてしまう。

他人の書いたものを右から左に横流ししてるだけで何が楽しいのか。

溺れないようにもがいてたら泳げるようになってた、みたいな生存者バイアスで、「やれる感」の格差を拡大再生産させるのをやめて、多くの人が「とりあえずやってみる感じでもいいんだ」と安心できて、やってるうちにできるようになり、結果「やれる感」を獲得できるようなお手伝いができたらいいね。

教える側も、教えられる側と同じくらい、自信も余裕もねえんだけどさ、より生きやすい場を開拓するための痩せ我慢は、たまたま生き延びてしまった側が引き受けるべき役割だと思ったほうがいい。

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僕はそのように仕事を覚えさせて欲しかったよ。やってもやんなくても「なんでだ!」と追求され、自分の「やれる感」がどんどん削られていくなか、それでもめげずにやり続けられる人だけが「やれる人」になってく仕組み、怖くて嫌じゃん。

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「なんでやらないんだ」とイラつくのもわかるけど、その憤りをそのままぶつけてしまうと相手は余計に「やはり自分にはできない」という確信を強めてしまう。

どうしたら「あ、自分やれるな〜」と思えるようになるか。やってみないとやれるようにならないのだから、やってみるしかなくて、「やれない」モードの人にはとにかく「やれるかやれないか分かんないよね〜、やれなくても全然構わないから、何回かやってみて欲しいし、やるをやってみることそのものがすでに一個の大成功!」ということを何度も伝え、じっさい失敗しても責められないのだと信用してもらえるよう工夫するほかないんじゃないだろうか。

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ひとに仕事を教えていると、どんな簡単なことであれ「自分にはできない」と思い込んでいると本当にできないというか、作業の手順を学習することを無意識に拒絶してしまうものだというのがよくわかる。

思慮深く自身の能力を低めに見積もるまじめな人よりも、根拠のない自信でなんでもやってみちゃう軽薄な人のほうがじっさいに仕事が「できて」しまう。

「できる/できない」という個々の能力差というのはそんなになくて、「やる/やれない」という自己への信頼だとか「やれる」という思い込みの量の差のほうが重要な気がするのだが、ここで気をつけなきゃいけないのは、問題が「やる/やれない」にあるとしても、個々人のやる気の問題として責任を個人にだけ求めるのは悪手だということだ。「やらない」のでなく、「やれない」と書いたのは、そもそも人が「自分はやれる」という屈託なく思い込めるかどうかは、本人の力ではどうしようもない、環境や運によって決まるものだからだ。

柿内正午 さんがブースト

まだ揃っていない本もあるのですが、町でいちばんの素人・柿内正午( )氏に選書協力いただいた「閉塞感MAXのこの社会をどうにかするにはゾンビにヒントを得たほうがいいんじゃないか?」的なフェア、スタートしました。冊子もあるのでご自由にどうぞ。2/23(木・祝)にはイベントも開催予定。

ビジネスパーソンの自己を啓発し意識を昂揚させることを第一義にするような本をいくつか読んでいくと、自己を変容させかねない新規な知見というのはなくて、当たり前のことだけ書いてある。ではそこに何があるかというとこれらは意思決定者のケアのための道具なのだ。どれもマネジメントやリーダーシップという言葉を基本形にさまざまな流行語がフレーバーとして付与されはするが、そこにあるメッセージはつねに「率いる立場ってつらいよな。でも格好いいよ」という励ましのように読める。

この国の為政はあえてビジネスとして見たとしても、自社都合だけで動いてしまってユーザー目線を欠いたクズプロダクトを産み続けているけれど、こうした愚行を野放しにして駆動しているのは「率いる立場ってつらいぜ」というナルシシズムであるのかもしれない。

現政権を肯定する根拠として「俺たちマネジメント層のつらさ」を重ねてしまっている会社員的な発想があるのかもしれない。でも会社経営と為政とはぜんぜんちがうことだ。会社経営のアナロジーで語るにしてもお粗末な現状であるにせよ、ビジネスのアナロジーで政府を腐すのもけっこう危ないんでないか。

“(…)生き方についての精神的骨格が無くなった社会状態は十分な意味ではもはや社会とは言い難い。一定の様式を持った生活の組織体ではないからである。それはむしろ社会の解体状態と言った方がいい姿なのである。そうして、そういう時にこそ得てして社会の外側から「生活に目標を」与えてやろうという素振りをもって「国家のため」という紛いの「価値」が横行し始める。そうなると社会の再生はひどく難しくなる。国家とは機械的な装置なのだから、「国家のために生活する」ということは即ち生活が機械的装置の末端機関と化すことを意味するだけである。生活組織と生活様式の独立性はここでは崩れ去る他ない。”
市村弘正編『藤田省三セレクション』(平凡社)

フェイクドキュメンタリーはカメラの存在が明示されるぶん、演じる身体の演技くささがむしろ虚構世界を強化するのが面白くて好き。今回の青年役の俳優さん、そのあたりの塩梅がかなりよかった。

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『City Lives』、呼吸孔で大はしゃぎした。ああいうの好き。

しかし、こうも賃金に対して釣り合いがとれないほどモノの値段が上がってると、一回のランチの失敗はたしかに大ダメージではある。

今日は凶暴な気持ちだったのでガーリックチップの載った味噌ラーメン。900円。初めての店で、一度通り過ぎて、思い直して引き返した。ふつうにおいしかった。だいたいの挑戦は、良くも悪くもないまずまずのところに収まる。そして蚊もなく不可もないありふれた結果というのは、心配性で欲張りな人間からすると拍子抜けで、やはり幻滅を呼び起こすのだ。

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心身ともに傷の治りが遅くなってきて、せめて自分は自分に優しくしてあげようという気持ちが強くなってるけど、それは傷つきを回避できるようにあらゆるリスクを取り除くということではないのよな。自分はちゃんとやってみたいと思えば挑戦できるし、傷ついたとしても立ち直ることができるのだと何度も言い聞かせるほうがずっといい。ハチクロの森田みたいなこと言ってる。

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