今日のお昼どうしようかな。平日のランチはいつもちょっとだけ幻滅が伴う。思ったよりも高かった、量が多かったり少なかったりした、店員さんがイライラしていた、床がペタペタいった、ほかの客の圧が嫌だった、そもそも食べたいのこれじゃなかった──、なにかしらの「こんなはずじゃなかった」がほとんど毎回あると、いつしか行くお店が代わり映えしなくなる。
限られた時間で、未知に踏み出すだけの好奇心や勇気を振り絞る。ちょっとした冒険に必要な元気が減退してるのを感じる。たいしたことじゃないのに、どうしてこうも失敗を避けるようになってるんだろう。
@kakisiesta 難解だと感じた本をためしに「です・ます調」に変換しながら読んでみてください。「なんだかさっきよりわかった気がする」と思ったのではないでしょうか。自然に語尾を変えるためにはそれなりの読解が必要で、無理なく文体を置き換えられたということはすでにある程度読めているということなのです。
「です・ます調」とは一種の詐術ではないか。
いま私は易しく書いています/易しく説明してくれているな、と書き手と読み手の双方を騙す文体。
@book_lighthouse 流石です!(ぶじ着荷することを願ってます!)
『ハイパーインフレーション』おもしれー
"利己心の潔癖な忌避は、セルフネグレクトでしかない。まずは自分のフィールドを構築することから。思いやりは余裕の副産物なのだから、自分が楽チンであればあるほど思いやりの質も高まっていく。”
柿内正午『町でいちばんの素人』より
https://habookstore.shop/items/61a18d1e4adba011190c2450
自分語りは悪いことではなくて自己を相対化するためにも必要なステップなので、インターネットが実現した拡声器へのアクセスの容易さによって誰でも屋上のようなところから大きな声でどうでもいい自分の考えや感覚を発表できる可能性をひらいたこと自体は、いい面の方が大きいように考えている。
でも、大半の人は自分がどうでもいい存在であることを認めるのが耐え難い。自分を語ることによって「どうでもよさ」が露呈するのを恐れ、代わりに他人のことをとやかく言うほうが楽だったから、拡声器を得たあともテレビの前の独り言と同じように他人のことばかり言うだけだった。
自分語りを忌避し、他人事へ嘴を突っ込むことを社会的意義のあることのようにのめり込むことは、見かけに反して自己愛の甘やかしを増長させていく一方な気がする。
うちはうち、よそはよそ。
よそのことをうちの理屈で語るのはみっともないし、うちのことをよその理屈で語るのも卑屈だ。自分のことを自分でバラし再構成することをサボらないほうがいい。よその理屈は自分だけではどうにもならない困難をいなすための杖としてだけ使えばよくて、それだけを原理原則として自分の判断を明け渡しすぎてもおかしなことになってしまう。自分のことには自分しか興味ないのだし、自分で自分なりのよさを確保するしかない。
【お知らせ】
久々にネットプリントを作りました。第二回柿内賞の発表と選考委員三名(実質一名)による座談会をお送りします。セブンイレブンで出力できます。白黒でも大丈夫。お正月の暇つぶしによかったらどうぞ。 #アカミミNEWS
推奨用紙サイズ:A3
番号:79196778
期限:2023/01/08 23:59
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30を超えたいまになって「ビール飲みたい」を理解した気がする。
かきないしょうご。会社員。文筆。■著書『プルーストを読む生活』(H.A.B) 『雑談・オブ・ザ・デッド』(ZINE)等■寄稿『文學界』他 ■Podcast「 ポイエティークRADIO 」毎週月曜配信中。 ■最高のアイコンは箕輪麻紀子さん作