「誰からも大事にされてないなー」みたいな環境のなかでくたびれきって、体力や気力に余裕がないとき、他人へのちょっとした親切って明確に「減るもの」になる。たとえば電車の席を譲るとか、次の人のためにトイレットペーパーを替えておくとか、共用スペースの掃除とか、誰かのことを褒めるとか。
それらの行為が必要とする体力や気力ってほんのわずかなんだけれど、力の残高がジリ貧だとそのわずかすら勿体なく感じられて、使ったぶんだけ即時に見返りがあるような超短期的な利益に繋がる行為しかできなくなる。たとえば人を押し退けて席に座る、トイレットペーパーを使い尽くして放っておく、共用スペースを私物化する、誰かのことをやっかみ腐す。もちろんこれらの行為はほんの少し長い目で見れば自他ともにより貧しくなっていく悪手であるとわかりきっている。それでも、「いままさにゼロになりかけてる自分の気力体力をなんとか保ちたい」という切実な必要にとらえられているとき、ちょっとした親切すら「贅沢」になってしまう。

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「いいじゃん、減るもんじゃないし」と気前よく親切を振る舞うためには、親切に必要な力が取るに足らないものであると思える程度の余裕が不可欠。

多くの人が疲れてて、お金もなくて、余裕が確実に削られていくと、どんどん目先の必要の比重が大きくなって、荒んでく。物心がついてからの20年間、そういう状況が進行していくのをずっと見せつけられてる気がしている。

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