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自分語りは悪いことではなくて自己を相対化するためにも必要なステップなので、インターネットが実現した拡声器へのアクセスの容易さによって誰でも屋上のようなところから大きな声でどうでもいい自分の考えや感覚を発表できる可能性をひらいたこと自体は、いい面の方が大きいように考えている。

でも、大半の人は自分がどうでもいい存在であることを認めるのが耐え難い。自分を語ることによって「どうでもよさ」が露呈するのを恐れ、代わりに他人のことをとやかく言うほうが楽だったから、拡声器を得たあともテレビの前の独り言と同じように他人のことばかり言うだけだった。

自分語りを忌避し、他人事へ嘴を突っ込むことを社会的意義のあることのようにのめり込むことは、見かけに反して自己愛の甘やかしを増長させていく一方な気がする。

うちはうち、よそはよそ。

よそのことをうちの理屈で語るのはみっともないし、うちのことをよその理屈で語るのも卑屈だ。自分のことを自分でバラし再構成することをサボらないほうがいい。よその理屈は自分だけではどうにもならない困難をいなすための杖としてだけ使えばよくて、それだけを原理原則として自分の判断を明け渡しすぎてもおかしなことになってしまう。自分のことには自分しか興味ないのだし、自分で自分なりのよさを確保するしかない。

ネットプリント、8日までやってます。よかったらどうぞ。

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柿内正午 さんがブースト

【お知らせ】
久々にネットプリントを作りました。第二回柿内賞の発表と選考委員三名(実質一名)による座談会をお送りします。セブンイレブンで出力できます。白黒でも大丈夫。お正月の暇つぶしによかったらどうぞ。 #アカミミNEWS

推奨用紙サイズ:A3
番号:79196778
期限:2023/01/08 23:59

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なんか、一口目以降も美味しく思えるようになってきた。

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30を超えたいまになって「ビール飲みたい」を理解した気がする。

ある時代の社会構造そのものが「呪い」であるということを明示したうえで、あえて自ら土地と個人の呪いを引き受け魔女となることで「呪い」の生産システムである現行社会を転覆する『フィアー・ストリート』と対照的で、僕は明らかに『フィアー・ストリート』派だ。

呪いは社会構造の再生産=システムの強化ではなく、その破壊と無効化という形で機能してほしい。ちんけな人間社会に収まっちゃつまらない。

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社会構造を運命や自然のように捉える態度と、作劇上の必然を装って露骨に提示されるミソジニーの醜悪さ。厭な気持ちにさせるのはホラーの本懐だとしても、この厭さはダメな厭さ。人が怖いですらなく、社会しかないんだもん。出口のないシステムの息苦しさしかなくて、そんなもん映画じゃなくていいというか、映画におけるホラーはシステムの内破あるいはシステムへの侵食であってほしい。こればっかりは趣味の話で、出来不出来ではない。出来としてはものすごくよくできてる。俳優の演技も配置も、照明もかなりよかった。ここに不満はほとんどない。

高橋洋の脚本もまじで巧い。でもこの巧さは、非常にロジカルであるという以上の意味を持たない。僕には合わない。いや、すげえ嫌いだったなあ。

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『ケイコ 目を澄ませて』を観ていまさら三宅唱をちゃんと追いかけてみようと思い立つ。
そこで『呪怨 呪いの家』を一気に視聴したのだが、僕は高橋洋と決定的に合わないのかもしれないな、という気持ちを強めた。とにかくあまりに理に落ちる。80年代から90年代にかけて、社会システムの「外部」が完全に拭い取られてしまったという見立て自体に不満はないのだけど、だからといって恐怖自体がシステムの内部だけで終始することをよしとする必然性はないはず。
拡張する空間としての「家」は、今作においてはもはや時代そのものと同義とされている。誰も時代からは逃れられず、主体性は機能しない。被害者も加害者も交換可能で、ただシステム内の函数として機能を反復するだけである。

『真・事故物件パート2/全滅』観たあとに焼肉とか食べに行くオフ会とかしたい。
僕は前作『真・事故物件』はあんま楽しめなかったんだけど、スプラッター映画は続編のほうが景気がよさそうだし……
ひとりでは行かないけど、イベントとしてなら行くかも、みたいな映画の扱いに困る。

この数ヶ月視力の低下が無視できなくなってきて、眼鏡の度数を変えた。世界ってこんなに輪郭がくっきりしてたのか。

子供のころからフィルム時代の映画に親しんで、ざらついた肌理こそが「ほんとう」で、4Kテレビのようにぱっきりとものの輪郭が際立つ映像を嘘くさいと感じてきた。
こうして視力が適正に矯正されると、あのうさんくさいほどに明快な画面はたしかにリアルへ迫る試みではあったのだなと一応の納得をする。

いま僕の眼前に広がるあらゆるものが明確な外縁を主張する様子を見て、まるで高級な薄型テレビのようだ、と考えてしまう僕のほうが映像機器よりもよっぽどバーチャルな位相で生きている。

「不思議どっとテレビ。これマジ!?」、「力の限りゴーゴゴー!!」の宜保愛子、藤岡弘がUMA探すやつ……

寒いのも無理だけれど、暖房も苦手。室内の乾燥ともったりした温さで、のぼせてしまって頭がぼやけてしまう。

『ル・コルビュジエのペサック集合住宅』、翻訳の文章がとても下手くそだ。

(ゾンビの話題になると途端に付き合いづらくなる人)

俺ァゲームみたいな映画が嫌いだ。どうしたってゲームのほうが楽しいからだ。
映画みたいなゲーム遊ぶより映画みたほうが面白いのと同じだ。
走るゾンビはせっかちな映画の代表みたいなところがある。だからこそ許してはいけないのだ。映画は映画の面白さを探究しなきゃ嘘でしょう。

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(映画における)ゾンビの走る走らない問題は、「死後硬直した身体は走れないだろ」みたいな、ジョージ・A・ロメロの素朴なリアリズムへの追随というだけに留まらない、映画が撮るべき運動とはどういうものか、という問いにこそかかっている。

そしてゲームにはゲームの表現すべき運動があり、それは確かに速度に関わっている部分も多いだろう。

映画の目は、ゲームの目よりもずっと、遅いはずなのだ。

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Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。