『ケイコ 目を澄ませて』を観ていまさら三宅唱をちゃんと追いかけてみようと思い立つ。
そこで『呪怨 呪いの家』を一気に視聴したのだが、僕は高橋洋と決定的に合わないのかもしれないな、という気持ちを強めた。とにかくあまりに理に落ちる。80年代から90年代にかけて、社会システムの「外部」が完全に拭い取られてしまったという見立て自体に不満はないのだけど、だからといって恐怖自体がシステムの内部だけで終始することをよしとする必然性はないはず。
拡張する空間としての「家」は、今作においてはもはや時代そのものと同義とされている。誰も時代からは逃れられず、主体性は機能しない。被害者も加害者も交換可能で、ただシステム内の函数として機能を反復するだけである。

社会構造を運命や自然のように捉える態度と、作劇上の必然を装って露骨に提示されるミソジニーの醜悪さ。厭な気持ちにさせるのはホラーの本懐だとしても、この厭さはダメな厭さ。人が怖いですらなく、社会しかないんだもん。出口のないシステムの息苦しさしかなくて、そんなもん映画じゃなくていいというか、映画におけるホラーはシステムの内破あるいはシステムへの侵食であってほしい。こればっかりは趣味の話で、出来不出来ではない。出来としてはものすごくよくできてる。俳優の演技も配置も、照明もかなりよかった。ここに不満はほとんどない。

高橋洋の脚本もまじで巧い。でもこの巧さは、非常にロジカルであるという以上の意味を持たない。僕には合わない。いや、すげえ嫌いだったなあ。

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ある時代の社会構造そのものが「呪い」であるということを明示したうえで、あえて自ら土地と個人の呪いを引き受け魔女となることで「呪い」の生産システムである現行社会を転覆する『フィアー・ストリート』と対照的で、僕は明らかに『フィアー・ストリート』派だ。

呪いは社会構造の再生産=システムの強化ではなく、その破壊と無効化という形で機能してほしい。ちんけな人間社会に収まっちゃつまらない。

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