社会構造を運命や自然のように捉える態度と、作劇上の必然を装って露骨に提示されるミソジニーの醜悪さ。厭な気持ちにさせるのはホラーの本懐だとしても、この厭さはダメな厭さ。人が怖いですらなく、社会しかないんだもん。出口のないシステムの息苦しさしかなくて、そんなもん映画じゃなくていいというか、映画におけるホラーはシステムの内破あるいはシステムへの侵食であってほしい。こればっかりは趣味の話で、出来不出来ではない。出来としてはものすごくよくできてる。俳優の演技も配置も、照明もかなりよかった。ここに不満はほとんどない。
高橋洋の脚本もまじで巧い。でもこの巧さは、非常にロジカルであるという以上の意味を持たない。僕には合わない。いや、すげえ嫌いだったなあ。
ある時代の社会構造そのものが「呪い」であるということを明示したうえで、あえて自ら土地と個人の呪いを引き受け魔女となることで「呪い」の生産システムである現行社会を転覆する『フィアー・ストリート』と対照的で、僕は明らかに『フィアー・ストリート』派だ。
呪いは社会構造の再生産=システムの強化ではなく、その破壊と無効化という形で機能してほしい。ちんけな人間社会に収まっちゃつまらない。