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走るゾンビ自体がゲームに求められる面白さ──ゲームの敵がノロノロしてたら簡単に殺せちゃうからスリルもなければ技巧を磨く動機づけもない──を満たす必要から発明されたものだから、ゲームのゾンビは勝手に走っていればよろしいのだけれど、映画のゾンビが走るのはやはり、あまり、美しくないというか、僕の考える映画の快楽に反すると感じてしまう。

いまの投稿は一個にまとめることもできた。息継ぎがいまだに140文字に規定されてる。嫌だわ。

「ふつう」に「まとも」な感覚を持ってる人が新規で参入しようという気にまったくなれないものとして政治の現場があるの、意味わかんないくらい怖くないですか。
異常に極端な人たちしかいない場所で、大多数の「ふつう」の生活が左右される決定がなされていく。

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これは、お前の「ふつう」は普通じゃないんだ、みたいな議論にしてはいけない話だ。「ふつう」の破壊と更新はボトムアップの政治の領域だ。
税制度など、トップダウンの政治が個人の素朴な生活実感から乖離してる時点で現代の政治としては失格だよ。

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巷で耳目を集めるのは極端で異常な人たちで、だからテレビやSNSだけ見ていると世の中というのが最悪な場所に思えてくる。ふだんの生活のなかで出会うのは、テレビに出そうもないしSNSでバズりそうもない「ふつう」で「平凡」な個人たちである。
以上のような感覚は、それこそ大多数の人たちが抱いている生活実感だと思うのだけど、耳目を集める極端で異常な人たちがうじゃうじゃいる場所のひとつが政府である状況は、やはりかなり酷いことだと思う。政治の場こそ「ふつう」に運用されて欲しいのだが。

わかりあえなさのずっと手前に、大抵の人は他人のことなど「知ったことじゃない」というのがあって、「どうしてわかりあえないのか」ではなく、「どうしてわかる気のないことを放っておくことができないのか=知ったことじゃないはずのことになぜ嘴を容れてしまうのか」という問いのほうが個人の実感としては実際的であるような気がする。

日本の街はほんとにゴミ箱がないな。串団子を食べ歩いて、食べ終わってもいつまでも串を片手に歩かなくてはならない。こういうとき、公共の衰退を実感する。公共とはゴミ箱と、ゴミ収集のことなのだ。ゴミ箱をどんどん減らして「自己責任」での持ち帰りを推奨する結果どうなるか。ゴミ箱がないから仕方なく自販機横のペットボトル用のゴミ箱に無理やりプラ容器を突っ込んだり、諦めて道端にポイ捨てする人が増える。そういう「正しくない」人たちだって、ゴミ箱があればゴミ箱に捨てたいだろう。自分たちでテロ対策だのなんだのと理屈をつけてゴミ箱を撤去しておきながら、街が汚くなっていく責任を個人のモラルにだけ押しつけるのは、端的にふざけるなと思う。気持ちのいい街が欲しいなら、ゴミ箱をふんだんに設置し、こまやかな収集のルーティンを設計しなければいけない。

インターネットの掲示板はゴミ箱のようなもので、わざわざ覗き込まなければゴミみたいな文字を読まずに済んだ。ゴミは物好きのものだった。巨大SNSは公道でありたかったのかもしれないけれど、ゴミ箱がないからゴミ箱みたいになってしまった。

わかしょ文庫・宮崎智之「随筆かいぼう教室」というトークイベントの配信を流しながらうたた寝。自照文学という言葉を初めて知った。自身の経験と思索から批評を試みる主観的な叙述を特徴とした文学らしい。もうすこしディグりたくなる言葉だ。私小説と心境小説を、心情を語るために人物を造形するか否かで区別していたというお話も面白い。
Twitterが「ミニブログ」として個人サイトやブログの派生としてでてきたとき、日本の多くの人はこれを自照文学の空間として、内省と体験に基づいた思索の現場として受け入れたのではないか。でももともと内包されていた設計思想に沿うようにして、徐々に弁論の場になっていった。弁論の担い手からすれば、個人の日々の他愛もない感情の機微など、議論を妨げるノイズでしかないだろう。個人の感想を排除する風潮への抵抗としても随筆はある。日記も。一方の意見を排斥し対立を超克するのではなく、個々の固有性を際立たせ差異を差異のままに共存させる言葉の運用。
youtube.com/watch?app=desktop&

発売中の『文學界』2023年1月号に「無駄な読書」というエッセイを書いてます。無駄は、意識的に引き寄せようとすると逃げていくもので、どんな意図もすぐさま価値や意味を連れてきてしまう。「無駄を生きる」という特集全体を通して、意識的に無駄をつくることの困難が問われているようで面白いです。

僕が欲しかったのは反応じゃなくて、無造作に放られた文字群だったのだと思い出すようにマストドンにどうでもいいことを書き散らかす。

ワクチン四回目、はじめてのモデルナ。これまでビビり散らかしたくせに副反応そこまでなかったので、今回こそはたいへんだぞ、とすこしワクワクしてる。熱出して諦めて寝続けてたい。

来るかもわからない後進のための露払い、かなり気力や信念がいる。

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社会の高齢化のなにが問題かって、いまの三〇代くらいが「いつまで経っても若いもの扱いされる」というのがあると思う。
二〇代で「まだまだ若いだから」と言われるのはまだよかったけれど、三〇過ぎても変わらず言われて、これ、このままずっと繰り越されていくのでは、と思うとぞっとする。
どこかで与えられる側から与える側へのシフトが必要で、それを成熟と呼びならわしてきたのだと思うけれど、硬直化した組織の中では上の世代が量で圧倒してきて、いつまでも与えられる側に甘んじられてしまう状況がある。こわい。
下の世代へのお節介な親切心が人を成熟させるのだと思うのだけど、いまの僕は高校時代の部活の先輩や、大学時代の怖いOBほども大人になれていない気がする。とっくに当時のあの人たちの年齢を越しているのに。僕自身がかつて誰かの「先輩」であったときですら、おそらく今以上に大人びていただろうと思う。
若手はもういい。後進のための地味で泥臭い舗装作業に取りかかりたいのだが、そんな日は来るのだろうか。

業務中は個人でなく立場でものを言うから気楽なものである。個人の信念と、配置された立場とのあいだの齟齬を誠実に検討しない限りにおいては。

組織上の立場としての言動に、個人としての倫理を問うても無駄なのは、組織人の誰ひとりとして「私は私個人としてこの行為の行為主体である」というふうには考えていないからだ。

丸の内線がチェンソーマンラッピングの車両で、無数のマキマさんにまなざされながら通勤するはめになった。

理性の制御がこちらの想定とはべつの形で作動してるめちゃくちゃさにどうしても惹かれてしまう。
めちゃくちゃな人間社会への過剰適応によって虐げられてきた少年が、魔界ではじめて自分で選んだ友人関係の相手として、クララはあまりにぴったりなのだ。

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『魔入りました!入間くん』アニメ一期を観終えた。じわじわ好きになってきた。クララかわいい。

みんなどんどん軽薄に本作って売ろ。

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様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。