走るゾンビ自体がゲームに求められる面白さ──ゲームの敵がノロノロしてたら簡単に殺せちゃうからスリルもなければ技巧を磨く動機づけもない──を満たす必要から発明されたものだから、ゲームのゾンビは勝手に走っていればよろしいのだけれど、映画のゾンビが走るのはやはり、あまり、美しくないというか、僕の考える映画の快楽に反すると感じてしまう。
巷で耳目を集めるのは極端で異常な人たちで、だからテレビやSNSだけ見ていると世の中というのが最悪な場所に思えてくる。ふだんの生活のなかで出会うのは、テレビに出そうもないしSNSでバズりそうもない「ふつう」で「平凡」な個人たちである。
以上のような感覚は、それこそ大多数の人たちが抱いている生活実感だと思うのだけど、耳目を集める極端で異常な人たちがうじゃうじゃいる場所のひとつが政府である状況は、やはりかなり酷いことだと思う。政治の場こそ「ふつう」に運用されて欲しいのだが。
日本の街はほんとにゴミ箱がないな。串団子を食べ歩いて、食べ終わってもいつまでも串を片手に歩かなくてはならない。こういうとき、公共の衰退を実感する。公共とはゴミ箱と、ゴミ収集のことなのだ。ゴミ箱をどんどん減らして「自己責任」での持ち帰りを推奨する結果どうなるか。ゴミ箱がないから仕方なく自販機横のペットボトル用のゴミ箱に無理やりプラ容器を突っ込んだり、諦めて道端にポイ捨てする人が増える。そういう「正しくない」人たちだって、ゴミ箱があればゴミ箱に捨てたいだろう。自分たちでテロ対策だのなんだのと理屈をつけてゴミ箱を撤去しておきながら、街が汚くなっていく責任を個人のモラルにだけ押しつけるのは、端的にふざけるなと思う。気持ちのいい街が欲しいなら、ゴミ箱をふんだんに設置し、こまやかな収集のルーティンを設計しなければいけない。
インターネットの掲示板はゴミ箱のようなもので、わざわざ覗き込まなければゴミみたいな文字を読まずに済んだ。ゴミは物好きのものだった。巨大SNSは公道でありたかったのかもしれないけれど、ゴミ箱がないからゴミ箱みたいになってしまった。
わかしょ文庫・宮崎智之「随筆かいぼう教室」というトークイベントの配信を流しながらうたた寝。自照文学という言葉を初めて知った。自身の経験と思索から批評を試みる主観的な叙述を特徴とした文学らしい。もうすこしディグりたくなる言葉だ。私小説と心境小説を、心情を語るために人物を造形するか否かで区別していたというお話も面白い。
Twitterが「ミニブログ」として個人サイトやブログの派生としてでてきたとき、日本の多くの人はこれを自照文学の空間として、内省と体験に基づいた思索の現場として受け入れたのではないか。でももともと内包されていた設計思想に沿うようにして、徐々に弁論の場になっていった。弁論の担い手からすれば、個人の日々の他愛もない感情の機微など、議論を妨げるノイズでしかないだろう。個人の感想を排除する風潮への抵抗としても随筆はある。日記も。一方の意見を排斥し対立を超克するのではなく、個々の固有性を際立たせ差異を差異のままに共存させる言葉の運用。
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=_AgSbRWMxb0
社会の高齢化のなにが問題かって、いまの三〇代くらいが「いつまで経っても若いもの扱いされる」というのがあると思う。
二〇代で「まだまだ若いだから」と言われるのはまだよかったけれど、三〇過ぎても変わらず言われて、これ、このままずっと繰り越されていくのでは、と思うとぞっとする。
どこかで与えられる側から与える側へのシフトが必要で、それを成熟と呼びならわしてきたのだと思うけれど、硬直化した組織の中では上の世代が量で圧倒してきて、いつまでも与えられる側に甘んじられてしまう状況がある。こわい。
下の世代へのお節介な親切心が人を成熟させるのだと思うのだけど、いまの僕は高校時代の部活の先輩や、大学時代の怖いOBほども大人になれていない気がする。とっくに当時のあの人たちの年齢を越しているのに。僕自身がかつて誰かの「先輩」であったときですら、おそらく今以上に大人びていただろうと思う。
若手はもういい。後進のための地味で泥臭い舗装作業に取りかかりたいのだが、そんな日は来るのだろうか。
『魔入りました!入間くん』アニメ一期を観終えた。じわじわ好きになってきた。クララかわいい。
かきないしょうご。会社員。文筆。■著書『プルーストを読む生活』(H.A.B) 『雑談・オブ・ザ・デッド』(ZINE)等■寄稿『文學界』他 ■Podcast「 ポイエティークRADIO 」毎週月曜配信中。 ■最高のアイコンは箕輪麻紀子さん作