走るゾンビ自体がゲームに求められる面白さ──ゲームの敵がノロノロしてたら簡単に殺せちゃうからスリルもなければ技巧を磨く動機づけもない──を満たす必要から発明されたものだから、ゲームのゾンビは勝手に走っていればよろしいのだけれど、映画のゾンビが走るのはやはり、あまり、美しくないというか、僕の考える映画の快楽に反すると感じてしまう。
(映画における)ゾンビの走る走らない問題は、「死後硬直した身体は走れないだろ」みたいな、ジョージ・A・ロメロの素朴なリアリズムへの追随というだけに留まらない、映画が撮るべき運動とはどういうものか、という問いにこそかかっている。
そしてゲームにはゲームの表現すべき運動があり、それは確かに速度に関わっている部分も多いだろう。
映画の目は、ゲームの目よりもずっと、遅いはずなのだ。
俺ァゲームみたいな映画が嫌いだ。どうしたってゲームのほうが楽しいからだ。映画みたいなゲーム遊ぶより映画みたほうが面白いのと同じだ。走るゾンビはせっかちな映画の代表みたいなところがある。だからこそ許してはいけないのだ。映画は映画の面白さを探究しなきゃ嘘でしょう。
ゾンビを走らせる、これは映画の冒涜です。
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俺ァゲームみたいな映画が嫌いだ。どうしたってゲームのほうが楽しいからだ。
映画みたいなゲーム遊ぶより映画みたほうが面白いのと同じだ。
走るゾンビはせっかちな映画の代表みたいなところがある。だからこそ許してはいけないのだ。映画は映画の面白さを探究しなきゃ嘘でしょう。