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最近(というか5.xあたりからずっとだけど)ニャンが本当に優しい人になってて、あぁ〜!!!あぁ〜!!!ってなるんですよな……。

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ふせったーにも書いたけど、アジュダヤがエスティニアンに対して「無礼な物言いだこと……。それが激励なのだとしたら、まるでニーズヘッグだわ」って言ったシーンに大変心乱されました。というのを下書きに入れっぱなしにしていたので投下。

ニャンの生が何を生きることなのか、というのが露わになっていたというか、ニャンはニーズヘッグとしても生きようとしている……っていうとちょっと言い過ぎなんだけど、でもとにかく何かしらそのようである、仇敵と自己の人生を相合したものとしての生を生きようとしているんだな、っていうのにすごく……すごく……(胸を叩く)

ヒカセンはアリゼーの憧れを身に受けて、それに対して「ありがとうね」という気持ちはあると思うんだけれど、そこに何かの慕情というか、「私のことを見て欲しい」みたいな気持ちが含まれていた時、多分それを叶えてはあげられなくて、そのことでアリゼーを傷つけちゃったらすごく辛い、どうしよう、って思っちゃうんだよな。

アリゼーに嫉妬とか独占欲とか置いて行かれる寂しさとかで苦しんでもらいたくないなあ、という気持ちが結構強い。多分、大人のヒカセンが子供……とは言い切れないまでも歳下のアリゼーの好意を、何かの形で裏切る日が来る、切り捨てたり諦めさせたり拒絶したりする日が来る、という直感があるからではないだろうか。

「好き」って気持ちは、恋愛であれ友情であれ独占欲と接近するけれど、アリゼーからヒカセンへの「好き」は、どんな第三者に対してだと独占欲的になるんだろう。グ・ラハが相手じゃそうはならなくて、アルフィノに対してもさほどなる訳でもなく、でも何だかエスティニアンには一瞬なってそうだなと思わなくもなくて、でもだとしたらそれは、むしろアリゼーが(ヒカセンではなく)アルフィノに対して抱いている「好き」の感情が、エスティニアンとアルフィノの関係の強さを見た時に揺らぐ、悔しいと感じる、ということなのかもしれないなあ、なんてことを思う。

前もどこかで書いたけど、グ・ラハ・ティアはエスティニアンと真逆のもの――すなわち生者の思いをを背負ってきた人だ、と解釈できると思う。エスティニアンが過去とか死者の声と共に生きているのだとしたら、グ・ラハは未来とか生者の声と共に生きている人。

ただ、グ・ラハ・ティアはヒカセンと再び邂逅する前の百年をそのように既に生きていて、一通りその生き方を終えている、というのが独特のところなんだよな、と思う。生まれ変わったんだよな彼は……。

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グ・ラハ・ティアがエメトセルクと対峙した際に「私は、お前たちが翻弄してきたもの……人の歴史、人の執念によって導かれた代行者だ」と言う訳だけど、暁月のグ・ラハは当然もう水晶公のような意味ではその立場になくて、何ていうか……この、「古代人の恣意によって虐げられてきた現生人の代表者」が主要キャラクターに確固たる形ではいなくなっている、というのが暁月の肩透かしの構造上の原因かな……という気もする。

他者が生きるはずだった「分も」生きるということと、死んでいった人達の「命を」生きるということは違う。他者の前にあった筈の数十年分の時間や、そこを埋めたであろう経験を代わりに担います、というのが前者なのだとしたら、後者は死んでしまった他者「その人に成り代わって」というのか、「この私ではなくあの人として」生きるというのか、とにかくそういう、自己のためだけにあった席の半分を他者に譲るというようなことが必要になってくる気がする。

エスティニアンにとってニーズヘッグは間違いなくそういう存在だよね。そして例えばヒカセンにとってのアルバートもそう。アルバートはそのことを――ヒカセンが自分自身の中に他者としてのアルバートを置いて生きてくれるだろうということを――確信できたから、あのように死んでいった、命を擲ってくれたのだと思う。

エスティニアンがヒカセンを案じる時、彼の胸の内にあるのは、自分の中にそんなに多くの他者を住まわせて大丈夫なのか?ということでもあるのかもしれない。ヒカセンは出会って見送った人々を、余りにも鮮明に胸に留めているので。

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アルフィノとヒカセンは、「オルシュファンやイゼルを助けられなかった悲しみの先で」エスティニアンを助け、生かした。アイメリク達もきっと、今まで救えなかったイシュガルドの多く人々の姿を想いながら彼を助けた。そして紅蓮以降のエスティニアン自身からも、言動の端々から「ニーズヘッグの分も生きる」とか「イゼルの分も生きる」と思っている風なのが伺える。

「死んでいった人達の命を生きている」という一面がエスティニアンには濃厚にあって、つまりエスティニアンは死者と共に生きている人なのだ、と私は思うんだけど(彼が意識を取り戻した時の言葉も「念願の復讐を果たしたわけだが、俺の心は晴れちゃいない。ただあるのは、すべての死を悼む心だけ……」で、自分が生き延びたことの先に、まず思ったのは死者のことなんだよね)、それは何ていうか、ごく一般的な意味での「死んだ人の分も生きる」というのとは結構位相の異なる生き方だと私は思う。

何故って、今もなお帝国の属州民やアラミゴやヤンサの人達の中で、その苦しみが芽を出して生い茂っているので。その苦しみは明らかに彼らのせいではなくて帝国に由来するもので、そしてどう考えても帝国があのような拡張主義的な国になったのは、エメトセルクによるところが大きいので。

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これはさ、ヒカセンという一人の人間がエメトセルク(ハーデス)という一人の人間に対峙するという、そのことの中においてそうだ、という話であって、エメトセルクが自らのパワーを用いてなしてきた事柄までもが死によって「洗われる」と見てしまうのは違うよね。

暁月のシナリオの問題点はいくつかあるけれど、多分その内の一つだと思う。死んだらみんな良い人になる、ではダメで、エメトセルクがこの世に蒔いたものの責任というのは、死んでもなおエメトセルクにあるんだよ、という話にならなくてはいけないと思う。

fedibird.com/@hoshinami629/111 [参照]

本好き最終巻読んで、フェルマイフェルまじで全然アリですわ……の気持ちを新たにした。

この辺り結構『ジェーン・エア』みかあるかもしれん。

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本好きの最終巻、ローゼマインが麗乃の年齢に追いついてきた感があって、それはつまりフェルディナンドと自立した大人同士として付き合えるようになるってことでもあって、その辺りが非常に良かったなあ……と……。

そう思って読み返すと、フェルディナンドがローゼマインに助けられた際に、彼女と本当の家族になりたい、なろう、と決断をした理由の中に、やっぱりロゼマちゃんが大人になっているからというのはありそうだなと。魔力感知云々ではなしに、ローゼマインは自分が常に守らなくてはならない存在ではなく、自分と一緒に歩いていける存在なんだ、と思えるきっかけだったんじゃないかと思う、あの救出の一件っていうのは。

プロローグで彼が「ローゼマインは自分のことを諦めずに助けてくれた、だから自分も諦めない」みたいな風に考えるシーンがあるけれど、こういう考え方に基づいてローゼマインに接する、あるいはローゼマインのことを思うということ自体、大人と大人の対等な関係性って感じがするんだよね。
彼をそうさせたのはローゼマインの行動な訳だけど、アーレンスバッハへ乗り込むっていうのはローゼマインが子供の姿のままではやはりできなかった筈で、彼女が心身共に成長して大人になったことで、色んな扉が開いていったんだな〜……ということを思うのでした。

アリゼーにとってのニャン、どういう対象なんだろうな〜。アリゼーは他者に対してさっぱりしたところがあるけど、アルフィノとニャンが仲良くしているの、何となく羨ましそうに見ている印象はあって(それはアルフィノが羨ましいのかニャンが羨ましいのか、どっちなのかなあ)、その辺りについてあれこれと気にしてしまう。

ハイデリンの姿がめちゃくちゃ天野喜孝絵でびびった

FF14の自機設定 

お人よしで他人のことばかり優先する……というのはゲームの進行上ヒカセンに必ずついて回る属性だけれど、私はそれを「ちょっと病的に見える」「流石に無理していると思う」と感じるので(これはゲームシナリオへの非難ではなくて、「仕様上仕方がないとは思うけど、こんな人いたら大変だよ!」という感じね)、そういう性格になるに至った理由を考えてこんなところへ着地した。

そういう生い立ちなので、どうしても自分の気持ちを内に溜め込みがち。なかなか暁の仲間にも「聞いて感じて考え」た内容を打ち明けられない。

イシュガルドは自機にとって特別な場所。大切な「弟」アルフィノが痛みと共に成長した場所であり、自分が過去を乗り越えた場所でもあり、その「乗り越え」の過程で大切な人を亡くした場所でもあり……という感じ。自分が定住して暮らすならここが良い、と思っている。

自機がオルシュファンについて何を思うかについては、長くなるので省略……。彼については特に思ったことを誰にも打ち明けられなくて、ただ墓参の折にフランセルと会った時だけ、その本心をぽつぽつと言葉にすることもある、という感じ。

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FF14の自機設定 

ルイゾワが時神アルジクの力で自機を未来に飛ばした結果、自分の年齢をどのように認識すべきか途方に暮れている。体感では二十三歳+新生以降の経過年月。だがリムサ・ロミンサの知り合いや暁の古株の人達とは、以前の年齢で培った関係性があるため、特に新生の頃はどのように振る舞うべきか強い戸惑いがあった。

加えて第七霊災の影響で自分に関する記憶が人々から失われているという事実があり、特にリムサ・ロミンサで以前から親しくしていた人と再会した際、それを目の当たりにしてショックだったので、海都を故郷だとは思いつつも「この街には自分の居場所がない」と感じている。

新生終盤〜蒼天辺りでアルフィノとイシュガルドに逃れた際、自機の中ではアルフィノがかつての弟と重なっていた。「この子がお父さんに殴られないように、私が何とか庇わないと」という感覚でアルフィノを心配していたのだけれど、出会う人々が誰もアルフィノを理不尽に叱責せず、彼に対して適切な距離や言葉で接するのを見て、自機も救われる思いだった(自機の中では、弟のことを守ってあげられなかった、父を止められなかった、それで家族がバラバラになってしまった、という認識がどうしてもあるので)。

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FF14の自機設定 

父親はアルコール依存症、母親はそのイネイブラーをしてしまう、というような感じの家庭だった。自機は父親から弟を庇い、母親の愚痴を聞く役という感じ。

リムサ・ロミンサで初等教育を受けた際に成績が優秀だったことから、十三歳頃に見習いとしてメルヴァン税関公社に勤めるようになる。魔法の才能もあり、勤務態度も真面目だったことから、ここで巴術の手ほどきも受ける。

自機が十六歳の時、二歳下の弟の見習い先について父と弟が揉めて大喧嘩になり、弟が家を飛び出す。

自機二十歳の時に、とうとう父親が泥酔状態で船から海へ落ちて死亡。母一人娘一人になったのも束の間、母親は心労が祟って一年しない内に他界してしまう。母の葬儀を機に弟と久しぶりに顔を合わせるが、その時には弟は既に海賊になっていた。

天涯孤独になってしまった自機に、当時巴術士ギルドの先輩格だったトゥビルゲイムが「冒険者でもして、色んな土地を回ってみたら?」と勧めてくれる。そうして旅が始まった……というような感じ。

旧の頃が分からないのでざっくりと想像だけども、この数年後、大体自機二十三歳の頃にルイゾワやミンフィリア達と出会って……というようなことを考えている。

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