同人誌の原稿、思ったよりまとまってた(真っ赤にしたけど)。良かったー。

言葉は身体的な接触に少し似ていて、明確に対象にロックオンして働くようなことが可能だけど、他の表現、例えば絵を描くとか音楽を奏でるとか踊るとかいうのは、ロックオンすることができない。目と目を合わせたり近寄ったりすることは一応できるけれど、それだけ。

言葉は嘘をつける、身体も嘘がつける(例えばフェイントのような動きで人を騙す)、というのは、要は嘘をついて騙したい「対象」を決めることができるフォーマットだからなのだろうな。

同人誌の原稿、何だかテーマがバラけててまとまりがない。うーん。

グ・ラハの人生の紆余曲折、今のグ・ラハの中でちゃんと時系列というか、「記憶」としてしっくりきてるよって漆黒では言われているけれど、実際に本当に違和感がないのか、というのはいつも心配ではある。

彼は水晶公としてはあそこで死んだ筈で、その死を奇跡的に跨ぎ越してグ・ラハとして戻ってきたわけで……。矛盾なく理解できていたとしても、彼は死の瀬戸際を見てもいるんだよねえ。

フェの基本的な性格は日向棗、っていう仮説、割と面白いしそうだろうなという感じがする……。

二人きりになったら割とさくっとちゅーしてそう。

人が人を傷つけることが、思考停止的に禁忌になっている感じというのは実際あって、ただそれを「息苦しい」と思うかと問われると別に思わない。
どちらかというと、それはいままでもあり、これからもあり続けるものだろうという確信と、禁忌を信頼する人達の無邪気さとの乖離が引っかかっている。多分、これからも傷つけ合いはなくならないよ。

今更ながら、FF14はすごく『地球へ…』ぽいなと思った。キースがエメトセルクでありゼノス、ジョミーがヒカセンなんだなって。

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久しぶりに『地球へ…』を読んだ。キースが好きなんだよね。『風と木の詩』のオーギュも、好きというにはちょっとなあという気持ちもあるけど初めて読んだ時はやはり好きだなと思った。そういう「好き」が自分の中にあることから目を逸らしたくない一方、特にオーギュみたいな架空の人間を手放しで好きと言うのはねえ、というのがある。キースにしたってマツカの扱いは酷いもんだよね。最後死んだから許されてる感あるけど、死ねば良いってもんじゃないし。

確かに私、物語の中でまた別の物語が展開されて、それが一つ上位の物語と結びついて象徴的な意味を持つ、という構成に弱いんだよね。有栖川有栖の小説が好きなのもその構成を彼が得意としているからだと思う(『スウェーデン館の謎』や『絶叫城殺人事件』など)。

デッキとかカードが、物語の中の物語として機能している、ということなのかも。枠物語的でもあるし、シンボリカル、アレゴリカルでもある。

上手く言えないな〜……。

例えば海馬がオベリスクの巨神兵を生贄に捧げてブルーアイズホワイトドラゴンを召喚することや、遊戯が封印の黄金櫃に死者蘇生を封印してオシリスの天空竜の復活を阻止すること。
丸藤亮が卒業記念模範デュエルで使ったパワーボンドによってユベル戦で自滅すること。

あるいは表遊戯が様々な種族のモンスターを揃えたデッキを組み、特にサイレントソードマンやサイレントマジシャンといったターン経過と共に成長するモンスターを用いること。
丸藤亮が、パワーウォールによる山札犠牲(墓地肥やし)やパワーボンドによるLP犠牲と引き換えに強さを生むデッキを使っていること。

物語-キャラクター-カード-デッキの緊密な結びつきが私は好きなんだろうなあと思う……。

その上で、丸藤亮にも超えられないものもあった。彼が心臓に病を抱えた原因は、戦いを渇望するデッキによるの心身への負荷にあった訳だが(デッキ由来の負荷って何だよというのはさておき)、図らずも彼のデッキを受け継いだ翔は、デッキを自分なりに組み替えることでその負荷から脱却し、その上で更にデッキを進化させる。

ヘルカイザーが命を賭けて編んできたデュエルスタイルとは、パワーボンドや墓地肥やしに象徴される、強大な力と引き換えに自らの命を縮めるような戦い方だったのだけれど、翔はそこにドラゴンロイドをはじめとした手札を合わせることで、自分自身の命(≒LP)を削らずとも勝てるようなデッキへ組み替えていった。

丸藤亮には「パーフェクト」という限界がある。それを彼は卒業の際に十代に告げている。彼一人ではそれを打破できなかったけれど、デッキを翔に譲ることで、彼のデッキはパーフェクトの先を行くことになった。
彼が魂を削りながら歩いた道は、危険ではあったけれど否定されるべきものではない。その先がある。そういう描き方が好きだなあ、と改めて感じた。

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丸藤亮の貫いたデュエルスタイルは、吹雪が看破した通り昔から一貫したものだった。それは彼自身が言った通り「完璧」という限界を持つスタイルであり、それはどのような限界かと言えば、パワーボンドに象徴される諸刃の剣的な限界であり、墓地肥やしに象徴される犠牲を伴う強さという限界であろう。より強い力を得ることで自らの命を縮める、というような。

そのような命を極度に燃焼させる戦い方で、行けるところまで行った、その戦い方でできる全てのことをした、というのが彼のあの最後のデュエルで、彼は彼のデッキでできる最高のことをしたし、逆に言えばそれ以上はないという臨界点まで到達してしまった、ということになる。

彼のデッキが彼の戦い方を規定し、運命づけ、到達点をも暗示する、というこの描き方が本当に私は好きだ。

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久々にGX見ていたんだけれど、ヘルカイザーのこと本当に好きだな。特にあの対ユベル(ヨハン)戦。
かつてサイバー流の後継者としてリスペクトデュエルをしていた頃、対十代戦で使ったパワーボンド。
ヘルカイザーとして覚醒した際に用いたキメラテックオーバードラゴンの「エヴォリューション・リザルト・バースト」を彷彿とさせる、キメラテックフォートレスドラゴンの「エヴォリューション・リザルト・アーティラリー」の五連打。

死を覚悟した彼が、リスペクトデュエルはもちろん、勝利にのみこだわるデュエルスタイルの殻をも打ち破って、今までの自分の戦い方の総決算となるようなデュエルを見せつける。それは勝利にこだわるだけでなく、勝利を求める先で勝利よりも大切なものを尊重するデュエルだった、と読めると思う。

彼はヨハンの命を守り十代の心を守るために戦った部分があるし、ユベルに勝てないと分かると「俺に介錯は要らん」と言って自分で自分を殺しにいった。それは絶対にユベルに屈しないとか、誇りを守るというような意味合いがあると思う。

いや〜ジャックの言葉の強さが完全に海馬と同じで、見ててめちゃくちゃ懐かしいしめちゃくちゃ好きになっちゃうなあ……!

『遊戯王5D's』見始めた。遊戯王は本当に面白いなあ。

彼にとって真に他性を有した他者存在とは、死者なのだと思う。

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エスティニアンにとって死者とは、恐らくただ「死んだ人」であるだけではなくて、もっとその先とでもいうのか、死者に照らされる生者としての自分、そして自分を照らす他者としての死者というのがいるのだと思う。

これ、いつも上手く言えない。私の妄想だからか。

彼にとって静穏とは、それら背負うべき荷物、果たすべき使命、人生を歩んでいく上で必ず引き受けねばならない苦闘や試行錯誤、それら全てを放棄した先にある寂滅の安らぎでしかない。

生とは常に風の吹くところ、何もかもが一つところに留まらない、動的で移ろいゆくもののことなのだ。
だからラーラーの世界を訪れた時、彼は「生きた心地がしない」と言ったのだろう。

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