アルフィノとヒカセンは、「オルシュファンやイゼルを助けられなかった悲しみの先で」エスティニアンを助け、生かした。アイメリク達もきっと、今まで救えなかったイシュガルドの多く人々の姿を想いながら彼を助けた。そして紅蓮以降のエスティニアン自身からも、言動の端々から「ニーズヘッグの分も生きる」とか「イゼルの分も生きる」と思っている風なのが伺える。
「死んでいった人達の命を生きている」という一面がエスティニアンには濃厚にあって、つまりエスティニアンは死者と共に生きている人なのだ、と私は思うんだけど(彼が意識を取り戻した時の言葉も「念願の復讐を果たしたわけだが、俺の心は晴れちゃいない。ただあるのは、すべての死を悼む心だけ……」で、自分が生き延びたことの先に、まず思ったのは死者のことなんだよね)、それは何ていうか、ごく一般的な意味での「死んだ人の分も生きる」というのとは結構位相の異なる生き方だと私は思う。
他者が生きるはずだった「分も」生きるということと、死んでいった人達の「命を」生きるということは違う。他者の前にあった筈の数十年分の時間や、そこを埋めたであろう経験を代わりに担います、というのが前者なのだとしたら、後者は死んでしまった他者「その人に成り代わって」というのか、「この私ではなくあの人として」生きるというのか、とにかくそういう、自己のためだけにあった席の半分を他者に譲るというようなことが必要になってくる気がする。
エスティニアンにとってニーズヘッグは間違いなくそういう存在だよね。そして例えばヒカセンにとってのアルバートもそう。アルバートはそのことを――ヒカセンが自分自身の中に他者としてのアルバートを置いて生きてくれるだろうということを――確信できたから、あのように死んでいった、命を擲ってくれたのだと思う。
エスティニアンがヒカセンを案じる時、彼の胸の内にあるのは、自分の中にそんなに多くの他者を住まわせて大丈夫なのか?ということでもあるのかもしれない。ヒカセンは出会って見送った人々を、余りにも鮮明に胸に留めているので。